合戦絵巻 ─ 第一次世界大戦 勢力図

ガリポリの戦い

1915年3月18日〜1916年1月9日 / オスマン帝国 ダーダネルス海峡・ガリポリ半島

3月8日 夜

ヌスレットの機雷

1粒=約100人

1915年3月から1916年1月にかけて、オスマン帝国の首都イスタンブールへの入口、ダーダネルス海峡で、イギリス・フランスの連合軍がオスマン軍と戦った。艦隊による強行突破は機雷に阻まれ、続くガリポリ半島への上陸作戦も海岸近くで行き詰まった。10か月の戦いのすえ連合軍は撤退し、両軍で10万人を超える戦死者が出た。

上の観戦プレイヤーでは、兵を1粒=100人、船を1粒=1艘で描き、布陣から決着までの8つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

オスマン軍(ドイツ人将校リーマン・フォン・ザンデルスら)
約2.2万・船1艘
英仏軍・アンザック(オーストラリア・ニュージーランド軍団)
約3.7万・船5艘
fr
船1艘
anz
約2万・船1艘
いつ
3月8日 夜 → 結果

なぜ戦ったのか

1914年11月、オスマン帝国はドイツの側について第一次世界大戦に加わった。これでロシアは、黒海から地中海へ出る道をふさがれ、西の連合国からの補給を受けにくくなった。

西部戦線が塹壕戦で行き詰まるなか、イギリス海軍大臣チャーチルらは、別の場所で突破口を開こうと考えた。ダーダネルス海峡を艦隊で突破してイスタンブールを脅かせば、オスマン帝国を戦争から脱落させ、ロシアとの連絡路も開ける、という計画だった。

海峡は幅が数kmしかなく、両岸には砲台が並び、海には機雷がまかれていた。1915年2月から、英仏の艦隊は砲台への砲撃と機雷の除去を始めた。

合戦の経過

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13月8日 夜

ヌスレットの機雷

英仏艦隊は2月から海峡の入口の砲台を砲撃し、掃海艇で機雷を取り除こうとしていた。3月8日の夜、オスマン海軍の小さな敷設艦ヌスレットが、艦隊が砲撃のために回頭するエレンキョイ湾に、海岸と平行に26個の機雷をひそかに並べた。

23月18日 午前

戦艦部隊の突入

英仏の戦艦18隻が海峡に入り、両岸の要塞を砲撃した。要塞の大砲は次々と沈黙し、昼すぎには突破できるかに見えた。

33月18日 午後

機雷による惨事

回頭したフランスの戦艦ブーヴェが機雷に触れ、2分ほどで転覆して600人以上が亡くなった。続いてイレジスティブルとオーシャンも機雷で動けなくなり、夜のうちに沈んだ。ほかにも3隻が大破し、艦隊は引き返した。海からの突破はあきらめられ、陸軍による上陸作戦が準備された。

44月25日 夜明け

ヘレス岬とアンザック湾への上陸

英第29師団が半島の先端ヘレス岬に、アンザック(オーストラリア・ニュージーランド軍団)が西岸に上陸した。V海岸では石炭船リヴァー・クライドを浜に乗り上げさせて兵を降ろそうとしたが、機関銃に狙われて大きな犠牲を出した。アンザックは予定より北の、崖が迫る狭い入り江に上陸してしまった。

54月25日 午前

「私は諸君に死ぬことを命じる」

高地へ登ろうとするアンザックの前に、予備の第19師団を率いるムスタファ・ケマル中佐が駆けつけた。弾薬の切れた兵に「私は諸君に攻撃を命じるのではない。死ぬことを命じる」と言い、稜線を守り抜いたといわれる。上陸部隊は海岸近くのわずかな土地しか確保できなかった。

68月6日〜

スヴラ湾上陸と塹壕戦

夏の暑さとハエ、赤痢に苦しむ塹壕戦が続いた。8月、北のスヴラ湾に新しく上陸し、同時にアンザックがチュヌク・ベイルの稜線を攻めたが、上陸部隊の動きは遅く、ケマルが再び高地を守った。

71915年12月〜1916年1月

撤退

作戦の失敗を認めた連合軍は、ひそかに撤退した。空の塹壕から時間をおいて発砲する「自動小銃」の工夫などで気づかれず、撤退ではほとんど死傷者を出さなかった。

8結果

ガリポリの戦いの結果

両軍の戦死者は合わせて10万人を超えた(諸説あり)。作戦を推し進めた海軍大臣チャーチルは辞任した。オーストラリアとニュージーランドでは国の歩みを考える出来事として4月25日が「アンザック・デー」とされ、トルコではムスタファ・ケマルが英雄となり、のちに共和国の初代大統領となった。

勝敗を分けたもの

ヌスレットの機雷

オスマン海軍の小さな敷設艦ヌスレットは、英仏艦隊が回頭に使う湾に、海岸と平行に26個の機雷をひそかに並べた。3月18日、この機雷で戦艦3隻が沈み、3隻が大破した。艦隊による突破は、この一日で断念された。

高地を押さえた守り

上陸した連合軍の前には、急な崖と高い尾根がそびえていた。ムスタファ・ケマルの率いるオスマン軍が尾根を守りぬいたため、連合軍は海岸近くのわずかな土地から抜け出せなかった。

準備不足の上陸

連合軍の上陸は、地形の調べが不十分で、上陸地点を間違えたり、上陸したあとの動きが遅れたりした。8月のスヴラ湾上陸でも、のんびり構えているあいだに高地を固められてしまった。

主な武将とその後

ムスタファ・ケマルオスマン軍(ドイツ人将校リーマン・フォン・ザンデルスら)

オスマン第19師団長。アンザックの上陸に駆けつけて尾根を守りぬき、英雄となった。戦後、トルコ独立戦争を率いてトルコ共和国を建て、初代大統領となる。のちに「アタテュルク(トルコの父)」の名を贈られた。

チャーチル英仏軍・アンザック(オーストラリア・ニュージーランド軍団)

イギリス海軍大臣。作戦を推し進めたが、失敗の責任を問われて辞任した。第二次世界大戦ではイギリスの首相として国を率いる。

リーマン・フォン・ザンデルスオスマン軍(ドイツ人将校リーマン・フォン・ザンデルスら)

オスマン軍を指導したドイツ人将校。ガリポリの防衛を指揮した。

合戦のあと

1915年12月から1916年1月にかけて、連合軍はひそかに撤退した。空の塹壕から時間をおいて発砲するしかけなどの工夫で、撤退はほとんど死傷者を出さずに成功した。作戦は失敗に終わり、ロシアへの補給路は開けなかった。

オーストラリアとニュージーランドでは、上陸した4月25日が「アンザック・デー」とされ、国の歩みをふり返る大切な日となっている。トルコでは、ガリポリでの勝利が、独立と共和国の建国につながる誇りとして語りつがれている。

諸説と論点

「死ぬことを命じる」

ケマルが兵に「私は諸君に攻撃を命じるのではない。死ぬことを命じる」と言ったという話は、ケマル自身の回想などに見える。言葉の細部は伝える人によって違うが、ケマルが尾根の防衛に決定的な役割を果たしたことは確かとされる。

作戦そのものは正しかったのか

作戦の発想は大胆で正しかったが、準備と実行がまずかった、という見方がある一方、そもそも無理な計画だったという見方もある。チャーチルは晩年まで、この作戦の是非をめぐる議論にさらされた。

関連年表

1914年11月オスマン帝国が参戦
1915年2月英仏艦隊が海峡入口の砲台を砲撃
1915年3月18日艦隊の突入。機雷で戦艦3隻が沈む
1915年4月25日ヘレス岬・アンザック湾に上陸
1915年8月スヴラ湾に上陸
1916年1月9日連合軍の撤退が終わる
1923年トルコ共和国の成立

両軍の陣容

オスマン軍(ドイツ人将校リーマン・フォン・ザンデルスら)約2.2万・船1艘

部隊兵力その後
チャナッカレの要塞要塞
キリトバヒル要塞
セッデュルバヒル要塞
敷設艦ヌスレット1隻
第19師団(ムスタファ・ケマル)約1万
オスマン第9師団約12,000

英仏軍・アンザック(オーストラリア・ニュージーランド軍団)約3.7万・船5艘

部隊兵力その後
クイーン・エリザベス1隻
イレジスティブル1隻
オーシャン1隻
英第29師団1隻
リヴァー・クライド1隻
英仏軍(ヘレス岬)約17,000
スヴラ湾上陸部隊約2万

fr船1艘

部隊兵力その後
ブーヴェ(仏)1隻

anz約2万・船1艘

部隊兵力その後
アンザックの上陸部隊1隻
アンザック軍団約2万

決め手

機雷による惨事

回頭したフランスの戦艦ブーヴェが機雷に触れ、2分ほどで転覆して600人以上が亡くなった。続いてイレジスティブルとオーシャンも機雷で動けなくなり、夜のうちに沈んだ。ほかにも3隻が大破し、艦隊は引き返した。海からの突破はあきらめられ、陸軍による上陸作戦が準備された。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「第一次世界大戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:ジョン・キーガン『第一次世界大戦』(中公文庫)、木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま新書)