合戦絵巻 ─ 第一次世界大戦 勢力図

マルヌの戦い

1914年9月5日〜12日 / フランス パリ東方・マルヌ川

9月3日

パリの東へ向きを変えたクルック

1粒=約100人

1914年9月5日から12日にかけて、パリの東を流れるマルヌ川のまわりで、フランス軍とイギリス派遣軍が、パリに迫ったドイツ軍を押し返した。ドイツ軍の側面にできたすき間を突かれたドイツ軍は退却し、パリは救われた。「マルヌの奇跡」と呼ばれるこの戦いで、ドイツの短期決戦の計画は崩れ、戦争は長い塹壕戦へと変わっていった。

上の観戦プレイヤーでは、ドイツ第1〜3軍約70万とフランス軍・英国派遣軍約53万とuk約10万、あわせて約133万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

ドイツ第1〜3軍
約70万
フランス軍・英国派遣軍
約53万
uk
約10万
いつ
9月3日 → 結果

なぜ戦ったのか

1914年7月、オーストリアの皇位継承者がサラエボで暗殺されたのをきっかけに、ヨーロッパの大国が次々に参戦した。ドイツは東のロシアと西のフランスの両方と戦うことになった。

ドイツの作戦(シュリーフェン・プラン)は、ロシアが兵を集め終える前に、まずフランスを6週間ほどで倒すというものだった。主力は中立国ベルギーを通ってフランス北部に入り、パリの西を大きく回ってフランス軍を包みこむ計画だった。

8月、ドイツ軍はベルギーを抜けてフランス北部に攻めこみ、フランス軍とイギリス派遣軍は南へ退き続けた。9月はじめ、ドイツ軍の先頭はパリまで40kmほどに迫った。フランス政府はボルドーへ移った。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

19月3日

パリの東へ向きを変えたクルック

8月からベルギー・北フランスを南下したドイツ軍は、パリまで約40kmに迫った。右翼の第1軍を率いるクルックは、退却するフランス第5軍を追うため、計画ではパリの西を回るはずだった進路を、パリの東へ変えた。これで第1軍の右側面が、パリの守備軍の目の前にさらされることになった。

29月3〜4日

空からの発見

フランスとイギリスの偵察機が、ドイツ第1軍がパリの東を南東へ進んでいるのを見つけた。パリ防衛司令官のガリエニ将軍はこれを好機と見て、総司令官ジョッフルに反撃を進言した。ジョッフルは9月6日の全面攻勢を命じた。

39月5〜6日

ウルク川の戦い

パリから出撃したモヌーリの第6軍が、ウルク川の西でドイツ第1軍の側面を突いた。クルックは南にいた軍団を次々と北へ呼び戻して迎え撃ち、第6軍を押し返しはじめた。

49月7〜8日

タクシーで前線へ

第6軍に増援を急いで送るため、ガリエニはパリのタクシー約600台を集め、夜のうちに兵士約5000人を前線に運ばせた。運転手たちはメーターを倒したまま走り、あとで料金が支払われたという。軍事的な効果よりも、市民と軍が一体となった象徴として語り継がれた。

59月8〜9日

開いたすき間

第1軍が西へ向きを変えたため、東隣の第2軍とのあいだに大きなすき間ができた。慎重に進んでいた英国派遣軍とフランス第5軍が、このすき間に入り込んだ。サン・ゴンの沼地ではフォッシュの第9軍がドイツ第2・第3軍の猛攻に耐えた。

69月9日〜12日

ドイツ軍の退却

包囲されるのを恐れたドイツ軍参謀本部は、連絡将校ヘンチ中佐を前線に送り、その判断で第1・第2軍は退却を始めた。ドイツ軍はエーヌ川の北の高地まで下がり、塹壕を掘って踏みとどまった。

7結果

マルヌの戦いの結果

パリは救われ、「マルヌの奇跡」と呼ばれた。ドイツの短期決戦の計画は崩れ、参謀総長モルトケは解任された。両軍の死傷者はそれぞれ20万人を超えた(諸説あり)。この後、両軍が互いの側面に回り込もうとして北へ塹壕を延ばし、西部戦線は4年近く動かなくなった。

勝敗を分けたもの

計画からのずれ

右翼の第1軍を率いるクルックは、退くフランス軍を追うため、パリの西ではなく東へ進路を変えた。そのため第1軍は、パリを守るフランス軍の前に側面をさらすことになった。

空からの偵察

偵察機がドイツ軍の進路の変化をとらえ、パリ防衛司令官ガリエニがすぐに反撃を進言した。飛行機が戦いの行方に大きく関わった、早い時期の例である。

二つの軍のすき間

第1軍がパリから攻めてきたフランス第6軍に向き直ったため、東隣の第2軍との間に大きなすき間ができた。そこへイギリス派遣軍とフランス第5軍が入りこみ、包囲を恐れたドイツ軍は退却を決めた。

主な武将とその後

ジョッフルフランス軍・英国派遣軍

フランス軍総司令官。退却を続けながら軍を立て直し、9月6日の全面反攻を命じた。落ち着いた指揮ぶりで「パパ・ジョッフル」と呼ばれた。

ガリエニフランス軍・英国派遣軍

パリ防衛司令官。ドイツ軍の側面をつく反撃を進言し、パリのタクシーを集めて兵を前線に送ったことで知られる。

クルックドイツ第1〜3軍

ドイツ第1軍司令官。パリの東へ進路を変えた判断が、マルヌの敗北の原因の一つとされる。

モルトケ(小モルトケ)ドイツ第1〜3軍

ドイツ参謀総長。前線から遠い司令部にいて状況をつかみきれず、退却を認めることになった。戦いのあと解任された。

合戦のあと

ドイツ軍はエーヌ川の北の高地まで下がり、塹壕を掘って踏みとどまった。その後、両軍は互いに相手の側面に回りこもうとして北へ北へと塹壕を延ばし(「海への競争」)、やがてスイス国境から北海までの西部戦線ができあがった。

短期間で決着をつけるはずだった戦争は、塹壕にこもって大砲と機関銃で消耗し合う長い戦いに変わり、1918年まで4年あまり続くことになった。

諸説と論点

タクシーは役に立ったのか

パリのタクシー約600台が兵を前線に運んだ話は有名だが、運んだ兵は約5000人ほどで、戦いの行方を変えたとまではいえない。むしろ、市民と軍が力を合わせた象徴として語りつがれてきた。

退却は必要だったのか

ドイツ軍の退却は、参謀本部から送られたヘンチ中佐の判断で決まったとされる。ドイツ軍はまだ戦えたのに、早すぎる退却で勝機を逃した、という見方も根強い。

関連年表

1914年6月28日サラエボ事件
1914年8月ドイツ軍がベルギーに侵攻。第一次世界大戦が始まる
1914年8月下旬タンネンベルクの戦い(東部戦線)
1914年9月5日〜12日マルヌの戦い
1914年9月〜10月「海への競争」。西部戦線の塹壕がつながる
1916年ヴェルダンの戦い・ソンムの戦い

両軍の陣容

ドイツ第1〜3軍約70万

部隊兵力その後
ドイツ第1軍(クルック)約25万
ドイツ第2軍(ビューロー)約25万
ドイツ第3軍約18万
騎兵軍団約15,000

フランス軍・英国派遣軍約53万

部隊兵力その後
フランス第6軍(モヌーリ)約15万
フランス第5軍(フランシェ・デスペレ)約20万
フランス第9軍(フォッシュ)約18万
パリのタクシー約600台
75mm野砲75mm野砲
偵察機偵察機

uk約10万

部隊兵力その後
英国派遣軍(フレンチ)約10万

決め手

開いたすき間

第1軍が西へ向きを変えたため、東隣の第2軍とのあいだに大きなすき間ができた。慎重に進んでいた英国派遣軍とフランス第5軍が、このすき間に入り込んだ。サン・ゴンの沼地ではフォッシュの第9軍がドイツ第2・第3軍の猛攻に耐えた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「第一次世界大戦 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:バーバラ・タックマン『八月の砲声』(ちくま学芸文庫)、木村靖二『第一次世界大戦』(ちくま新書)