合戦絵巻 ─ 古代日本 勢力図

瀬田橋の戦い

672年7月22日 / 近江 瀬田

7月22日

瀬田川をはさんで

1粒=約100人

672年(天武天皇元年)7月22日、近江国の瀬田川(いまの滋賀県大津市)に架かる瀬田橋で、大海人皇子の軍が大友皇子の近江朝廷の軍を破った。古代最大の内乱・壬申の乱の決戦である。翌日、大友皇子は自害し、大海人皇子は飛鳥に戻って天武天皇として即位した。

上の観戦プレイヤーでは、大海人皇子方(村国男依)—と近江朝廷(大友皇子)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

大海人皇子方(村国男依)
—
近江朝廷(大友皇子)
—
いつ
7月22日 → 結果

なぜ戦ったのか

663年の白村江の戦いで唐・新羅に敗れたあと、中大兄皇子は都を近江の大津に移し、668年に即位して天智天皇となった。天皇の弟の大海人皇子は、皇太子のような立場で政治を支えていた。

ところが天智天皇は、晩年になって我が子の大友皇子を太政大臣に任じ、跡継ぎにしようとした。身の危険を感じた大海人皇子は、病の天皇に「出家して仏道に励みたい」と申し出て、吉野へ退いた。

671年12月に天智天皇が亡くなると、翌672年6月、大海人皇子は吉野を出て東国へ向かった。美濃・尾張などの兵を集めて不破の関を押さえると、大軍で近江へ攻め入り、大和でも大伴吹負が兵を挙げた。近江朝廷の軍は各地で敗れ、ついに都の目の前の瀬田川で最後の決戦となった。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

17月22日

瀬田川をはさんで

近江に攻め入った大海人皇子方の軍は、瀬田川の東岸に着いた。西岸には大友皇子自らが率いる近江朝廷の軍が、「後ろが見えないほど」の旗を並べて待っていた。

27月22日

矢の雨

近江軍の弓兵が雨のように矢を射かけた。近江軍は橋の中ほどの板を3丈(約9m)ほどはずし、その上に長い板を渡して、渡る者があれば綱で引いて落とすしかけを作っていた。

37月22日

大分君稚臣の突進

大海人方の勇士・大分君稚臣は、長い矛を捨て、鎧を重ねて着て、刀を抜いて板の上を突進した。綱を切って矢を受けながら敵陣に切りこむと、近江軍は乱れた。

47月22日

近江軍の総崩れ

村国男依の軍が続いて橋を渡り、近江軍は総崩れとなった。大友皇子はわずかな供と逃げた。

5結果

瀬田橋の戦いの結果

翌23日、大友皇子は山前で自害した。25歳だった。大海人皇子は飛鳥に戻って翌年即位し、天武天皇となった。

勝敗を分けたもの

東国を押さえた

大海人皇子は真っ先に不破の関(いまの岐阜県関ケ原町)を押さえ、東国から近江朝廷に兵が向かう道をふさいだ。近江朝廷は兵を集めるのに苦しみ、大海人皇子のもとには東国の兵が次々に集まった。

橋のしかけを破った勇士

近江軍は瀬田橋の板をはずし、渡る者を綱で引き落とすしかけを作っていた。大海人方の大分君稚臣が鎧を重ねて着て突進し、矢を受けながら綱を切って敵陣に斬りこんだことで、近江軍の守りは崩れた。

近江朝廷の内部の弱さ

近江朝廷は、白村江の敗戦や大津への遷都で豪族たちの不満を抱えていた。若い大友皇子のもとで、豪族たちの気持ちは一つにまとまっていなかった。

主な武将とその後

大海人皇子大海人皇子方(村国男依)

天智天皇の弟。乱に勝って飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となった。天皇の力を強め、「日本」の国号や「天皇」の称号が定まったのもこのころとされる。

大友皇子近江朝廷(大友皇子)

天智天皇の子。学問にすぐれ、漢詩が『懐風藻』に残る。瀬田橋で敗れたのち、山前で自害した。25歳だった。明治になって「弘文天皇」と追号された。

村国男依大海人皇子方(村国男依)

美濃の豪族で、大海人皇子の舎人。近江へ攻め入る軍の将として各地で近江軍を破り、瀬田橋の決戦でも勝利を決めた。

大分君稚臣大海人皇子方(村国男依)

大海人方の勇士。長い矛を捨て、鎧を重ねて着て、引き落とし板の上を突進した。『日本書紀』がその勇姿を伝えている。

合戦のあと

7月23日、大友皇子は山前で自害し、近江朝廷の重臣たちは処罰された。大海人皇子は飛鳥に戻り、673年に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった。

戦いに勝って即位した天武天皇は、豪族たちに対して強い立場に立つことができた。皇族を中心とする政治を進め、律令や歴史書の編さんを始めた。その事業は妻の持統天皇に受け継がれ、藤原京や大宝律令へとつながっていく。

諸説と論点

大友皇子は即位していたのか

大友皇子が天智天皇の死後に即位していたかどうかは、『日本書紀』にはっきり書かれておらず、古くから議論がある。明治3年(1870年)、政府は大友皇子が即位していたとして「弘文天皇」の名をおくった。

『日本書紀』の書き方

壬申の乱の詳しい経過は『日本書紀』の「天武天皇紀」に書かれている。『日本書紀』は天武天皇の命で編さんが始まった歴史書なので、大海人皇子の側を正しいものとして描いていることに注意が必要である。

関連年表

663年白村江の戦い
667年大津に都を移す
668年中大兄皇子が即位し、天智天皇となる
671年10月大海人皇子が吉野へ退く
671年12月天智天皇が死去
672年6月大海人皇子が吉野を出て挙兵。壬申の乱が始まる
672年7月22日瀬田橋の戦い
672年7月23日大友皇子が自害
673年2月大海人皇子が即位し、天武天皇となる

両軍の陣容

大海人皇子方(村国男依)—

部隊兵力その後
村国男依総大将
大分君稚臣鎧を重ねる
大海人方の兵

近江朝廷(大友皇子)—

部隊兵力その後
大友皇子総大将近江朝廷の主力逃走
近江軍敗走
近江軍敗走
橋板のしかけ綱で引き落とす炎上

決め手

大分君稚臣の突進

大海人方の勇士・大分君稚臣は、長い矛を捨て、鎧を重ねて着て、刀を抜いて板の上を突進した。綱を切って矢を受けながら敵陣に切りこむと、近江軍は乱れた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「古代日本 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『日本書紀』、倉本一宏『戦争の日本古代史』(講談社現代新書)