合戦絵巻 ─ 古代日本 勢力図

白村江の戦い

663年8月27日〜28日 / 白村江(錦江の河口)

663年8月17日

待ち受ける唐

1粒=約100人

663年(天智天皇2年)8月、朝鮮半島南西部の白村江(錦江の河口付近)で、滅んだ百済を再興しようと送られた倭(日本)の水軍が、唐の水軍に大敗した。倭は朝鮮半島から手を引き、唐と新羅の侵攻に備えて国の守りを固めた。この敗戦は、日本が中央集権の国家づくりを急ぐきっかけとなった。

上の観戦プレイヤーでは、兵を1粒=100人、船を1粒=1艘で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

倭の水軍
船400艘
唐の水軍(劉仁軌)
船170艘
いつ
663年8月17日 → 結果

なぜ戦ったのか

7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が争っていた。新羅は唐と手を結び、660年、唐・新羅の連合軍が百済の都・泗沘城を落として、百済は滅んだ。

しかし百済の遺臣・鬼室福信らは各地で兵を挙げ、国を立て直そうとした。彼らは、長く倭に住んでいた百済の王子・豊璋を王に迎えたいと、倭に援軍を求めた。倭と百済は古くから深い関係にあり、斉明天皇と中大兄皇子は援軍を送ることを決めた。

斉明天皇は自ら九州へ向かったが、661年、筑紫の朝倉宮で亡くなった。中大兄皇子は即位しないまま政治を執り(称制)、豊璋を百済へ送り届け、662年から663年にかけて、あわせて数万の兵を送った。ところが663年、豊璋は復興運動の中心だった鬼室福信を謀反の疑いで殺してしまい、百済の遺臣たちの力は弱まった。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1663年8月17日

待ち受ける唐

周留城を救うため錦江をさかのぼろうとする倭の水軍を、唐の劉仁軌は170艘の大型船で白村江の河口に陣を敷いて待ち受けた。

28月27日

最初の戦い

先に着いた倭の船が唐の水軍とぶつかったが、不利になって退いた。唐軍は陣を固めて動かなかった。

38月28日

我先にと突撃

倭の将たちは「我らが先を争って攻めれば、敵は自ら退くだろう」と、天気も見ず隊列も整えないまま、次々に唐の中央の陣へ突っこんだ。

48月28日

左右からはさむ

唐の船は左右から回りこんで倭の船をはさみ、火を放った。倭の兵は船の向きを変えることもできず、多くが水に落ちて死んだ。4回戦って4回とも敗れ、400艘が燃えた。「煙と炎は天をこがし、海の水はみな赤くなった」と伝えられる。

58月28日

岸の百済軍も敗れる

岸で待っていた百済の騎兵も新羅軍に敗れた。百済王の豊璋は船で高句麗へ逃れた。

6結果

白村江の戦いの結果

9月、周留城が降り、百済の再興の望みは消えた。倭の兵と百済の貴族・民は倭へ引き上げた。唐・新羅の侵攻を恐れた倭は、九州から大和まで山城を築き、防人を置いて国の守りを固めた。この敗戦は、唐にならった中央集権の国づくりを急がせるきっかけとなった。

勝敗を分けたもの

待ち構える唐と、急いだ倭

唐の水軍は、白村江の河口で陣を固めて待ち受けていた。倭の軍は、百済軍が守る周留城を救うため錦江をさかのぼろうとし、陣形や天候をよく考えないまま攻めかかったと『日本書紀』は伝える。

船の大きさと戦い方の差

唐の水軍は170艘ほどだったが、大型の船が多く、統一された指揮のもとで動いた。倭の水軍は船の数こそ多かったものの、各地の豪族が率いる寄せ集めの軍で、まとまって戦う力に欠けていたと考えられている。

左右からの挟み撃ちと火攻め

唐の船は左右から倭の船を挟み、火を放った。『旧唐書』は、4度戦って4度勝ち、倭の船400艘を焼いたと記す。

主な武将とその後

中大兄皇子(天智天皇)倭の水軍

645年の乙巳の変で蘇我氏を倒し、改新の政治を進めた。白村江の敗戦後は国の守りを固め、667年に都を近江大津宮に移し、668年に即位した。

豊璋倭の水軍

百済の王子で、倭で長く暮らしていた。百済王として迎えられたが、敗戦後は船で高句麗へ逃れた。高句麗が滅んだのち、唐に捕らえられたとされる。

劉仁軌唐の水軍(劉仁軌)

唐の将軍。白村江で倭の水軍を破った。のちに唐の宰相となった。

鬼室福信倭の水軍

百済の遺臣で、復興運動の中心人物。豊璋を王に迎えたが、豊璋と対立して殺された。これが百済復興軍の弱体化を招いた。

合戦のあと

9月に周留城が降り、百済の復興の望みは消えた。倭の兵は、百済の貴族や民とともに倭へ引き上げた。唐と新羅が海を渡って攻めてくることを恐れた倭は、664年に対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(のろし)を置き、大宰府を守る水城を築いた。翌年からは、百済から逃れてきた貴族の指導で、大野城や基肄城など朝鮮式の山城を西日本の各地に築いた。

667年、中大兄皇子は都を内陸の近江大津宮に移し、翌年に天智天皇として即位した。670年には全国的な戸籍(庚午年籍)が作られた。唐という大国と向き合った経験は、律令にもとづく中央集権国家づくりを急がせ、701年の大宝律令へとつながっていく。国号を「日本」とし、君主を「天皇」と呼ぶようになったのも、このころのことと考えられている。

諸説と論点

「はくすきのえ」か「はくそんこう」か

『日本書紀』の古い読み方では「はくすきのえ」、漢字の音読みでは「はくそんこう」と読む。どちらも使われている。

戦場はどこか

白村江は、現在の韓国の錦江の河口付近とするのが一般的だが、別の川の河口とする説もある。

倭はなぜ大軍を送ったのか

古くからの友好国・百済を救うためだけでなく、朝鮮半島での影響力を保つため、また国内の豪族を一つの目的に向けて動員するためだった、などさまざまな見方がある。

関連年表

645年乙巳の変。中大兄皇子らが蘇我入鹿を討つ
660年唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼす
661年斉明天皇が筑紫の朝倉宮で亡くなる
663年8月白村江の戦い
664年対馬・壱岐・筑紫に防人と烽を置き、水城を築く
667年都を近江大津宮に移す
668年中大兄皇子が即位(天智天皇)。唐・新羅が高句麗を滅ぼす
670年全国的な戸籍、庚午年籍を作る
672年壬申の乱

両軍の陣容

倭の水軍船400艘

部隊兵力その後
倭の水軍総大将400艘以上沈没
倭の船炎上
倭の船沈没
百済の騎兵(岸)敗走

唐の水軍(劉仁軌)船170艘

部隊兵力その後
唐の大型船総大将170艘
唐の船
唐の船

決め手

左右からはさむ

唐の船は左右から回りこんで倭の船をはさみ、火を放った。倭の兵は船の向きを変えることもできず、多くが水に落ちて死んだ。4回戦って4回とも敗れ、400艘が燃えた。「煙と炎は天をこがし、海の水はみな赤くなった」と伝えられる。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「古代日本 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『日本書紀』、『旧唐書』劉仁軌伝