1660年7月9日
黄山伐
新羅の5万の軍が、百済の東の黄山伐に迫った。百済の将軍・階伯は「生きて辱めを受けるより」と自らの妻子を斬って出陣したと伝えられ、5000の決死隊で3つの陣を構えた。
合戦絵巻 ─ 古代日本 勢力図
660年7月9日
660年7月、朝鮮半島の南西部にあった百済が、新羅と唐の連合軍に攻められて滅んだ。百済の将軍・階伯はわずか5000の決死隊で新羅の5万の軍を黄山伐で迎え撃ち、4度押し返したが、ついに全滅した。都の泗沘も落ち、およそ700年続いた百済は滅んだ。この滅亡が、3年後に倭(日本)が出兵する白村江の戦いにつながっていく。
上の観戦プレイヤーでは、百済(階伯・義慈王)約5,000と新羅(金庾信)・唐(蘇定方)約18万、あわせて約19万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
7世紀の朝鮮半島には、北の高句麗、南西の百済、南東の新羅の三国が並び立ち、たがいに争っていた。百済は、古くから倭(日本)と親しく、仏教や漢字などの文化を伝えた国でもある。
百済の義慈王は新羅を攻めて多くの城を奪い、新羅は追いつめられた。新羅の金春秋(のちの武烈王)は唐へ渡って助けを求め、唐と新羅は手を結んだ。高句麗を攻めあぐねていた唐は、まず百済を倒して、高句麗を南北から挟もうと考えた。
660年、唐の将軍・蘇定方が13万の大軍を率いて海を渡り、新羅の金庾信も5万の兵を率いて西へ進んだ。百済の都・泗沘(いまの韓国・扶余)に、東と西から大軍が迫った。
場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。
1660年7月9日
新羅の5万の軍が、百済の東の黄山伐に迫った。百済の将軍・階伯は「生きて辱めを受けるより」と自らの妻子を斬って出陣したと伝えられ、5000の決死隊で3つの陣を構えた。
27月9日
階伯の決死隊は新羅軍を4度押し返した。新羅軍の士気は落ちた。
37月9日
16歳の花郎の官昌がただ一騎で百済の陣に突入して捕らえられた。階伯はその若さに感心して一度は帰したが、再び突撃してきた官昌を斬り、首を馬の鞍に結んで返した。これを見た新羅軍は奮い立った。
47月9日
新羅軍の総攻撃で、階伯と決死隊は全滅した。
57月12日〜18日
白江の河口から上陸した唐軍と、新羅軍が泗沘を囲んだ。義慈王は熊津に逃れたが、18日に降った。百済は滅んだ。宮女たちが白馬江の崖から身を投げたという「落花岩」の伝説が残る。
6結果
約700年続いた百済は滅んだ。しかし各地で遺臣が立ち上がり、倭に援軍を求めた。これが白村江の戦いにつながる。
百済は、陸からの新羅と、海からの唐を同時に相手にしなければならなかった。新羅軍を黄山伐で食い止めているあいだに、唐軍は白江の河口から上陸し、都へ迫った。
新羅には「花郎」と呼ばれる貴族の若者の集団があった。16歳の花郎・官昌がただ一騎で百済の陣に突入して討たれ、その首が返されると、新羅の兵は奮い立って総攻撃に移った。
百済では、王が政治をおろそかにして忠臣の言葉を聞かず、国の守りの準備がおくれていたと、のちの歴史書は伝えている。
百済の将軍。出陣の前に、敵の奴隷にされるよりはと自らの妻子を斬ったと伝わる。黄山伐で決死隊とともに戦死した。韓国では忠臣として今も語りつがれている。
百済最後の王。都が囲まれると熊津へ逃れたが、やがて降伏し、唐の都・長安へ連れていかれて亡くなった。
新羅の将軍。百済、そして高句麗を滅ぼす戦いで新羅軍を率い、のちの朝鮮半島統一の立役者とされる。
新羅の将軍・品日の子で、16歳の花郎。一騎で百済の陣に突入して討たれた。その死は新羅軍の士気を大きく高めた。
唐の将軍。13万の大軍を率いて海を渡り、泗沘を攻め落とした。
百済は滅んだが、各地で鬼室福信らの遺臣が立ち上がり、百済を復興させようとした。彼らは倭にいた百済の王子・扶余豊璋の帰国と、倭からの援軍を求めた。
倭の斉明天皇と中大兄皇子はこれに応え、大軍を朝鮮半島へ送った。663年、倭と百済の復興軍は白江の河口で唐・新羅の水軍と戦い、大敗した(白村江の戦い)。百済の復興は果たせず、多くの百済の人々が倭へ渡ってきた。
新羅5万、唐13万、階伯の決死隊5000という数は、のちの朝鮮の歴史書『三国史記』などによるもので、実際の数はわからない。
泗沘が落ちたとき、多くの宮女が白馬江の崖から身を投げたという「落花岩」の伝説が残る。「3000人の宮女」という数は後世の誇張とされている。
| 642年 | 百済が新羅の城を多く奪う |
|---|---|
| 648年 | 新羅の金春秋が唐へ渡り、同盟を結ぶ |
| 660年7月9日 | 黄山伐の戦い。階伯が戦死 |
| 660年7月 | 泗沘が落ち、義慈王が降伏。百済が滅ぶ |
| 661年 | 倭が百済復興のため援軍を送る |
| 663年8月 | 白村江の戦い |
| 668年 | 唐・新羅が高句麗を滅ぼす |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 義慈王総大将 | 降伏 | |
| 階伯総大将 | 決死隊5000 | 討死・壊滅 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 金庾信総大将 | 新羅軍5万 | 勝利 |
| 花郎 官昌 | 16歳 | 討死・壊滅 |
| 唐の蘇定方総大将 | 13万 |
決め手
16歳の花郎の官昌がただ一騎で百済の陣に突入して捕らえられた。階伯はその若さに感心して一度は帰したが、再び突撃してきた官昌を斬り、首を馬の鞍に結んで返した。これを見た新羅軍は奮い立った。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「古代日本 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:金富軾『三国史記』、『日本書紀』