16月12日
三韓の調の儀式
朝鮮の三国(高句麗・百済・新羅)から貢ぎ物が届いたとして、大極殿で儀式が開かれた。入鹿は用心深く剣を身につけていたが、道化役に笑わせられて剣を預けたという。宮の12の門は閉じられた。
合戦絵巻 ─ 古代日本 勢力図
6月12日
645年(皇極天皇4年)6月12日、飛鳥板蓋宮の大極殿で、中大兄皇子と中臣鎌足らが、権勢をふるっていた蘇我入鹿を斬り殺した。翌日には父の蘇我蝦夷も自害し、蘇我氏の本家は滅んだ。干支で乙巳の年に起きたこの政変から、大化の改新と呼ばれる国の仕組みの改革が始まる。
上の観戦プレイヤーでは、中大兄皇子・中臣鎌足—と蘇我入鹿—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
6世紀の後半から、蘇我氏は大王(天皇)の家と婚姻を重ね、朝廷で大きな力を持つようになった。蘇我馬子は物部氏を滅ぼし、推古天皇のもとで聖徳太子(厩戸王)とともに政治を動かした。
馬子の子の蝦夷、孫の入鹿の時代になると、蘇我氏の力はさらに強まった。643年、入鹿は聖徳太子の子・山背大兄王の一族を攻めて自害に追いこんだ。『日本書紀』は、蘇我氏が自分の家を「宮門」と呼ばせ、子を「王子」と呼ばせたと書き、天皇家をしのぐふるまいをしていたと伝える。
そのころ東アジアでは、唐が大帝国を築き、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国も緊張を高めていた。国の力を一つにまとめる必要を感じていた中臣鎌足は、皇極天皇の子・中大兄皇子に近づき、蘇我入鹿を倒す計画を立てた。
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16月12日
朝鮮の三国(高句麗・百済・新羅)から貢ぎ物が届いたとして、大極殿で儀式が開かれた。入鹿は用心深く剣を身につけていたが、道化役に笑わせられて剣を預けたという。宮の12の門は閉じられた。
26月12日
石川麻呂が上表文を読み上げたが、斬りかかる合図のはずの刺客が恐れて出てこない。石川麻呂は汗を流し、声が震えた。入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、「天皇の近くで恐れ多いからだ」と答えた。
36月12日
中大兄皇子が「やあ」と叫んで飛び出し、刺客たちとともに入鹿に斬りかかった。入鹿は天皇の前に転がり出て「私に何の罪があるのか」と訴えた。
46月12日
皇極天皇が殿中に退くと、刺客たちは入鹿を斬った。雨の降る庭に入鹿の遺体は捨て置かれたという。
5結果
翌日、父の蝦夷は邸に火を放って自害し、蘇我氏の本家は滅んだ。皇極天皇は位を弟の孝徳天皇に譲り、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握った(大化の改新)。
用心深い入鹿は、いつも剣を身につけていた。宮廷の儀式の日、道化役の者が入鹿を笑わせて剣をはずさせたと伝わる。宮の門はすべて閉じられ、入鹿は逃げ場のない場所で襲われた。
儀式で上表文を読み上げたのは、蘇我氏の一族の蘇我倉山田石川麻呂だった。鎌足らは、石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃に迎えて味方に引き入れていた。蘇我氏も一枚岩ではなかった。
刺客たちが入鹿を恐れて動けないのを見て、中大兄皇子は自ら飛び出して斬りかかった。皇子が先頭に立ったことで、計画は一気に成功へと動いた。
皇極天皇の子。このとき20歳。乱のあと皇太子として改新を進め、のちに即位して天智天皇となる。663年の白村江の戦いで唐・新羅に敗れ、近江の大津に都を移した。
計画の中心にいた人物。改新の政治を支え、亡くなる直前に天智天皇から「藤原」の姓を与えられた。藤原氏の祖である。
蘇我蝦夷の子。学識のある人物だったとも伝えられるが、『日本書紀』は専横な人物として描く。大極殿で討たれた。
中大兄皇子の母。事件の直後、弟の軽皇子(孝徳天皇)に位を譲った。日本で初めての譲位とされる。のちに再び即位して斉明天皇となる。
蘇我氏の一族ながら計画に加わり、儀式で上表文を読み上げた。改新後は右大臣となったが、649年、謀反の疑いをかけられて自害した。
入鹿が討たれた翌日、父の蝦夷は甘樫丘の邸に火を放って自害し、蘇我氏の本家は滅んだ。このとき、朝廷の歴史書『天皇記』『国記』も燃えたと伝えられる。
皇極天皇は位を弟の孝徳天皇に譲り、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握った。都は難波に移され、初めて「大化」という元号が定められた。翌646年の「改新の詔」では、土地と人を国のものとする方針などが示されたとされる(大化の改新)。
乙巳の変を詳しく伝えるのは『日本書紀』だけである。『日本書紀』は、勝った中大兄皇子(天智天皇)や藤原氏の子孫が力を持った時代にまとめられたため、蘇我氏をことさら悪く描いている可能性があると指摘されている。
「改新の詔」の文章には、のちの大宝律令(701年)の言葉づかいが混じっており、そのまま645年当時のものとは考えにくい。改新はもっと時間をかけて少しずつ進められた、とする見方が有力である。
かつては入鹿暗殺も含めて「大化の改新」と呼ばれることが多かったが、近年は、入鹿暗殺の政変を「乙巳の変」、そのあとの改革を「大化の改新」と分けて呼ぶのが一般的になった。
| 587年 | 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす |
|---|---|
| 593年 | 推古天皇が即位し、聖徳太子が政治に加わる |
| 643年 | 蘇我入鹿が山背大兄王の一族を滅ぼす |
| 645年6月12日 | 乙巳の変。蘇我入鹿が討たれる |
| 645年6月13日 | 蘇我蝦夷が自害。蘇我氏の本家が滅ぶ |
| 645年 | 孝徳天皇が即位。「大化」の元号を定める |
| 646年1月 | 改新の詔 |
| 663年 | 白村江の戦い |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 蘇我倉山田石川麻呂 | 上表文を読む | |
| 中大兄皇子総大将 | 長槍 | |
| 中臣鎌足 | 弓 | |
| 佐伯子麻呂・葛城稚犬養網田 | 剣 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 皇極天皇総大将 | ||
| 蘇我入鹿総大将 | 討死・壊滅 |
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「古代日本 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:『日本書紀』、遠山美都男『大化改新』(中公新書)