合戦絵巻 ─ 春秋戦国 勢力図

馬陵の戦い龐涓この樹の下に死す

前341年 / 馬陵

前341年

減るかまど

1粒=約100人

紀元前341年、馬陵(いまの山東省か河北省とされる)で、斉の軍師・孫臏が、魏の将軍・龐涓を伏兵で討ち取った。孫臏は野営のかまどの数を日ごとに減らして、斉の兵が逃げ出しているように見せかけた。夜、龐涓が大木の字を読もうと火をともした瞬間、1万の弩がいっせいに放たれた。兵法家どうしの因縁の対決として名高い戦いである。

上の観戦プレイヤーでは、斉軍(田忌・孫臏)約1万と魏軍(龐涓・太子申)—の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの5つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

斉軍(田忌・孫臏)
約1万
魏軍(龐涓・太子申)
—
いつ
前341年 → 結果

なぜ戦ったのか

孫臏と龐涓は、若いころともに兵法を学んだ仲だった。先に魏の将軍となった龐涓は、孫臏の才能をねたみ、魏に招いて罪をきせ、両足を切る刑(臏刑)に処した。孫臏という名は、この刑に由来するといわれる。

孫臏はひそかに斉へ逃れ、将軍の田忌に軍師として迎えられた。前353年の桂陵の戦いでは、魏に攻められた趙を救うため、魏の都を突いて魏軍を引き返させ、待ち伏せて破った(囲魏救趙)。

前341年、魏が韓を攻めると、斉は再び孫臏の策で魏の都を突いた。龐涓は韓から急いで引き返してきた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

1前341年

減るかまど

魏が韓を攻め、斉は孫臏の策で再び魏の都を突いた。魏の龐涓が引き返してくると、斉軍は退却した。孫臏は、野営のかまどを1日目10万、2日目5万、3日目3万と減らさせ、斉の兵が逃げ出しているように見せかけた。

2前341年

龐涓の追撃

「斉の兵は臆病者ばかりだ」と喜んだ龐涓は、歩兵を置き去りにして精鋭だけで昼夜兼行で追った。孫臏は日暮れに龐涓が馬陵に着くと計算し、道の両側に弩兵1万を伏せ、大木の皮を削って字を書いた。

3前341年 夜

樹の下の火

夜、大木の下に着いた龐涓は、白く削られた木に何か書いてあるのを見て、火をともして読んだ。「龐涓この樹の下に死す」。その火を合図に、伏せていた1万の弩がいっせいに放たれた。

4前341年 夜

龐涓の最期

魏軍は大混乱に陥った。龐涓は「ついにあの小僧に名を成させてしまった」と言って自ら首をはねたと伝えられる。斉軍は勢いに乗って魏の本隊を破り、太子申を捕らえた。

5結果

馬陵の戦いの結果

戦国初期の最強国・魏は、この敗戦で力を失った。翌年には秦の商鞅にも敗れ、河西の地を失っていく。孫臏はかつて龐涓に陥れられて両足を切られていたが、兵法で見事に仇を討った。この戦いは、弩(引き金のある弓)が戦場の主役になりつつあったことも示している。

勝敗を分けたもの

減っていくかまど

斉軍は退却しながら、野営のかまどを1日目10万、2日目5万、3日目3万と減らした。龐涓は、臆病な斉の兵が次々に逃げ出していると思いこんだ。

精鋭だけの追撃

勝ちを確信した龐涓は、歩兵を置き去りにして、精鋭だけを率いて昼も夜も追った。孫臏は日暮れに龐涓が馬陵に着くと計算し、道の両側の狭い場所に弩兵1万を伏せた。

火を合図に

孫臏は大木の皮を削り、「龐涓この樹の下に死す」と書いておいた。夜、それを読もうと龐涓が火をともすと、その火を合図に弩がいっせいに放たれた。

主な武将とその後

孫臏斉軍(田忌・孫臏)

斉の軍師。足が不自由なため、車に乗って指揮をとった。兵法書『孫臏兵法』を残したとされる。春秋時代の兵法家・孫武の子孫ともいわれる。

龐涓魏軍(龐涓・太子申)

魏の将軍。孫臏をおとしいれたが、馬陵で包囲され、「ついにあの小僧に名を成させてしまった」と言って自ら命を絶ったと伝わる。

田忌斉軍(田忌・孫臏)

斉の将軍。競馬の勝ち方を教えたことから孫臏を信頼し、軍師に迎えた。

合戦のあと

魏軍は総崩れとなり、太子の申が捕らえられた。戦国時代の初めに最も強かった魏は、この敗戦で力を失い、翌年には西の秦の商鞅にも敗れて、黄河の西の土地を失っていった。

代わって力を伸ばしたのが、商鞅の改革で強くなった秦と、東の斉だった。戦国時代の勢力図は、ここから大きく変わっていく。

諸説と論点

「孫子」は誰か

兵法書『孫子』の作者が、春秋時代の孫武なのか、戦国時代の孫臏なのかは、長く議論されてきた。1972年に山東省の銀雀山の漢代の墓から、『孫子兵法』と『孫臏兵法』の両方の竹簡が見つかり、二人は別の人物で、それぞれに兵法書があったことがわかった。

話の細部

かまどを減らした話や、大木の字の話は、司馬遷の『史記』に見える。劇的に整えられているが、孫臏の知略を伝える名場面として、兵法の手本とされてきた。

関連年表

前403年韓・魏・趙が諸侯となる
前359年ごろ秦で商鞅の改革が始まる
前353年桂陵の戦い(囲魏救趙)
前341年馬陵の戦い。龐涓が死ぬ
前340年魏が秦に敗れる
1972年銀雀山漢墓から『孫臏兵法』が見つかる

両軍の陣容

斉軍(田忌・孫臏)約1万

部隊兵力その後
孫臏(軍師)総大将車に乗って指揮
斉の弩兵1万
斉の弩兵
斉の弩兵
田忌の本隊

魏軍(龐涓・太子申)—

部隊兵力その後
龐涓総大将精鋭の騎兵討死・壊滅
魏の本隊(太子申)敗走

決め手

樹の下の火

夜、大木の下に着いた龐涓は、白く削られた木に何か書いてあるのを見て、火をともして読んだ。「龐涓この樹の下に死す」。その火を合図に、伏せていた1万の弩がいっせいに放たれた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「春秋戦国 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:司馬遷『史記』孫子呉起列伝