18月2日 朝
布陣
ローマは兵の数の多さを生かそうと、歩兵を厚く密集させて中央から押しつぶすつもりだった。ハンニバルは、中央に弱いガリア人とイベリア人の歩兵を三日月形に前へ張り出させ、その両側の後ろに精鋭のアフリカ兵を隠し、両翼に騎兵を置いた。
合戦絵巻 ─ ポエニ戦争 勢力図
8月2日 朝
紀元前216年8月2日、南イタリアのカンナエで、カルタゴの将軍ハンニバルが、倍近い兵を持つローマ軍を包囲して壊滅させた。中央をわざと後退させて敵を引き込み、両側と背後から閉じ込める戦い方は「包囲殲滅戦」の手本とされ、2000年以上たった今も、世界中の士官学校で研究されている。
上の観戦プレイヤーでは、ハンニバル 約5万—とローマ軍(ウァロ・パウルス)約8万約7万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
地中海の覇権をめぐるローマとカルタゴの争いは、ポエニ戦争と呼ばれる。第一次ポエニ戦争(紀元前264〜241年)に敗れたカルタゴは、シチリアを失った。将軍ハミルカルは、スペインに新しい勢力圏を築き、その子ハンニバルが後を継いだ。
紀元前218年、ハンニバルは歩兵と騎兵、戦象を連れてスペインを出発し、ピレネー山脈とアルプス山脈を越えて北イタリアに入った(第二次ポエニ戦争)。その年のトレビア川の戦い、翌年のトラシメヌス湖畔の戦いで、ハンニバルはローマ軍を次々に破った。
ローマは、独裁官ファビウスのもとで正面からの決戦を避け、ハンニバルを疲れさせる持久戦をとった。しかしイタリアの土地を荒らされ続けることに不満が高まり、紀元前216年、ローマは8万を超える空前の大軍を集めて、決戦を挑むことにした。軍は二人の執政官ウァロとパウルスが、1日交代で指揮した。
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18月2日 朝
ローマは兵の数の多さを生かそうと、歩兵を厚く密集させて中央から押しつぶすつもりだった。ハンニバルは、中央に弱いガリア人とイベリア人の歩兵を三日月形に前へ張り出させ、その両側の後ろに精鋭のアフリカ兵を隠し、両翼に騎兵を置いた。
2朝
川沿いの左翼で、ハスドルバルの重騎兵がローマ騎兵を打ち破った。右翼ではヌミディア騎兵が同盟市の騎兵を引きつけた。
3昼
ローマの歩兵は中央を力任せに押した。ガリア人とイベリア人は計画どおり、少しずつ後ろへ下がり、三日月は逆向きにへこんでいった。ローマ兵はその中へ深く入りこんだ。
4昼
入りこんだローマ歩兵の両側から、隠れていたアフリカ兵が向きを変えて攻めかかった。
5午後
ローマ騎兵を追い払ったハスドルバルの騎兵は、ローマ軍の後ろを回って右翼の同盟市の騎兵も背後から破り、そのままローマ歩兵の背後をふさいだ。ローマ軍は完全に囲まれた。
6夕方
囲まれたローマ兵はあまりに密集していたため、武器を振るうことさえできず、夕方までに5万人以上が死んだ。執政官パウルスも戦死し、元老院議員の3分の1にあたる約80人が倒れたという。
7結果
騎兵隊長マハルバルは「すぐにローマへ進めば、5日後にはカピトリウムで食事ができる」と勧めたが、ハンニバルは応じなかった。マハルバルは「あなたは勝つことは知っているが、勝利を生かすことを知らない」と言ったという。南イタリアの多くの都市がハンニバルについたが、ローマは降伏せず、戦い続けた。
ハンニバルは、中央に弱いガリアとイベリアの歩兵を三日月形に張り出させた。ローマの歩兵が押すと中央は少しずつ下がり、ローマ軍は自ら袋の中へ入り込んでいった。中央が崩れずに下がり続けるよう、ハンニバル自身が中央で指揮をとったとされる。
カルタゴの騎兵は、数でも質でもローマの騎兵を上回っていた。左翼のハスドルバルの重騎兵は、ローマ騎兵を打ち破ったあと、ローマ軍の背後を回って反対側の騎兵も破り、最後に歩兵の背後をふさいだ。
ローマは兵の数を生かそうと、歩兵を例年より深い隊形に組んでいた。囲まれると、兵たちはあまりに密集していて武器を振るうことさえできず、一方的に討たれていった。
カルタゴの将軍。幼いころ父に連れられて祭壇の前でローマへの敵意を誓ったと伝わる。イタリアで15年間戦い続けたが、ローマを屈服させることはできず、本国に呼び戻されて紀元前202年のザマの戦いで敗れた。のちにローマに追われ、紀元前183年ごろ、毒をあおって自ら命を絶った。
ローマの執政官。決戦の日の指揮官だった。敗れて逃げ延びたが、ローマに戻ると、元老院は「国家を見捨てなかった」として彼を出迎えたという。
もう一人の執政官。決戦に慎重だったとされるが、この戦いで戦死した。孫にあたるのが、のちにカルタゴを滅ぼす小スキピオで、娘はザマでハンニバルを破る大スキピオの妻となった。
カルタゴの騎兵の指揮官(ハンニバルの弟の同名のハスドルバルとは別人)。ローマ騎兵を二度にわたって破り、包囲を完成させた。
カルタゴの騎兵隊長。勝利のあと、すぐにローマへ進撃するよう進言したが、ハンニバルは応じなかった。
この一戦でローマは5万人以上を失い、執政官のパウルスや、多くの元老院議員が戦死した。南イタリアのカプアなど多くの都市がローマから離れてハンニバルについた。しかしローマは降伏せず、ハンニバルとの決戦を再び避けて、長い持久戦に戻った。
ハンニバルは本国からの十分な援軍を得られず、イタリアの中で孤立していった。その間にローマの若い将軍スキピオはスペインのカルタゴ勢力を破り、紀元前204年にはアフリカへ渡ってカルタゴ本国を攻めた。呼び戻されたハンニバルは、紀元前202年、ザマの戦いで、カンナエの戦いを研究したスキピオに敗れた。
古代の歴史家ポリュビオスはローマ側の死者を約7万、リウィウスは約4万8千と記している。いずれにしても、1日の戦いの死者としては世界史上でも最大級であった。
「あなたは勝つことは知っているが、勝利を生かすことを知らない」というマハルバルの言葉は有名である。しかし、ハンニバルには城壁に守られたローマを攻め落とす攻城兵器も兵力もなく、進撃しても勝ち目は薄かったとする見方が多い。
カンナエの戦い方は、後の軍人たちに大きな影響を与えた。19世紀末から20世紀初めのドイツ参謀本部は、カンナエを研究して、敵を両翼から包み込む作戦を考えた。第一次世界大戦のシュリーフェン計画にも、その影響があったといわれる。
| 紀元前264年〜241年 | 第一次ポエニ戦争。カルタゴがシチリアを失う |
|---|---|
| 紀元前218年 | ハンニバルがアルプスを越えてイタリアへ。トレビア川の戦い |
| 紀元前217年 | トラシメヌス湖畔の戦い |
| 紀元前216年8月2日 | カンナエの戦い |
| 紀元前211年 | ローマがカプアを取り戻す |
| 紀元前204年 | スキピオがアフリカへ渡る |
| 紀元前202年 | ザマの戦い。ハンニバルが敗れる |
| 紀元前146年 | 第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅ぶ |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| ガリア・イベリアの歩兵総大将 | 三日月形に張り出す | |
| アフリカ重装歩兵 | 左の奥 | |
| アフリカ重装歩兵 | 右の奥 | |
| ハスドルバル(重騎兵) | ||
| ヌミディア騎兵 | ||
| ハンニバル |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| ローマの歩兵(密集)総大将 | 約7万 | 討死・壊滅 |
| ローマ騎兵(パウルス) | 敗走 | |
| 同盟市の騎兵(ウァロ) | 敗走 |
決め手
ローマ騎兵を追い払ったハスドルバルの騎兵は、ローマ軍の後ろを回って右翼の同盟市の騎兵も背後から破り、そのままローマ歩兵の背後をふさいだ。ローマ軍は完全に囲まれた。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「ポエニ戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:ポリュビオス『歴史』、リウィウス『ローマ建国以来の歴史』