合戦絵巻 ─ ナポレオン戦争 勢力図

ボロジノの戦い

1812年9月7日 / ロシア ボロジノ(モスクワの西 約120km)

9月5日〜6日

シェヴァルジノの前哨戦

1粒=約100人

1812年9月7日、モスクワの西約120kmのボロジノ村のまわりで、ナポレオンの大陸軍約13万と、クトゥーゾフのロシア軍約12万が戦った。フランス軍は土の堡塁を次々に奪ったが、ロシア軍を崩すことはできず、両軍で7万人以上が倒れた。ナポレオン戦争で最も血なまぐさい一日といわれる。

上の観戦プレイヤーでは、大陸軍(ナポレオン)約11万とロシア軍(クトゥーゾフ)約11万、あわせて約22万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの7つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

大陸軍(ナポレオン)
約11万
ロシア軍(クトゥーゾフ)
約11万
いつ
9月5日〜6日 → 結果

なぜ戦ったのか

ナポレオンは、イギリスとの貿易を禁じる大陸封鎖令を守らなかったロシアをこらしめるため、1812年6月、60万ともいわれる大軍でロシアに攻めこんだ。

ロシア軍は決戦を避けて退き続け、村や畑を焼きながら奥へ奥へとフランス軍を引きこんだ。暑さと病気、食料不足で、フランス軍は戦わないうちから兵を減らしていった。

退くばかりの戦い方に国民の不満は高まり、皇帝アレクサンドル1世は、老将クトゥーゾフを総司令官にした。クトゥーゾフは、古都モスクワを前にして、ボロジノで迎え撃つことを決めた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

19月5日〜6日

シェヴァルジノの前哨戦

決戦を避けて退いてきたロシア軍は、国民の不満を受けて総司令官をクトゥーゾフに替え、モスクワの手前のボロジノで迎え撃つことにした。5日、前に突き出たシェヴァルジノ角面堡をフランス軍が奪った。6日、両軍は戦いの準備をした。ロシア軍の陣では、聖母のイコンを掲げた行列が兵を励ました。

29月7日 6時

大砲列の砲撃

夜明けとともに、100門以上の大砲がロシア軍の陣地を撃ち、ダヴーとネイの兵が南の突角堡(矢じり形の土の堡塁)に攻めかかった。ウジェーヌはボロジノ村を取った。

38時〜12時

突角堡の争奪

突角堡は8回も持ち主が変わった。ロシアの勇将バグラチオンは脚に砲弾の破片を受けて倒れ(のちに死亡)、昼ごろ、ついにフランス軍が突角堡を奪った。ネイとミュラは、近衛軍を出せば勝てるとナポレオンに求めた。

412時

コサックの陽動

ロシアのプラトフとウヴァーロフの騎兵が北からフランス軍の左側面に回りこんだ。大きな戦果はなかったが、ナポレオンは攻撃を2時間止めることになった。

515時

大角面堡の陥落

午後、ウジェーヌの歩兵とコランクールの胸甲騎兵が、ラエフスキー角面堡に突入した。騎兵が堡塁の後ろから飛びこむという珍しい攻撃で、コランクールは戦死した。堡塁の中は死体で埋まっていた。

6夕方

近衛軍は出さず

ロシア軍は1kmほど下がって陣を立て直した。ナポレオンは近衛軍を最後まで出さなかった。夜、クトゥーゾフは退却を決め、ロシア軍は整然とモスクワの方へ去った。

7結果

ボロジノの戦いの結果

フランス軍は約3万、ロシア軍は約4万5000の死傷者を出したとされる。ナポレオンは「最も恐ろしい戦いだった。フランス軍は勝利に値し、ロシア軍は不敗の名に値した」と語った。1週間後、ナポレオンはモスクワに入ったが、ロシアは講和に応じなかった。トルストイの『戦争と平和』は、この戦いを物語の山場とした。

勝敗を分けたもの

堡塁の争奪

ロシア軍は突角堡(矢じり形の土の堡塁)や大角面堡を築いて守った。フランス軍はそこへ正面から攻めかかり、堡塁は何度も持ち主が変わった。工夫のない力ずくの攻撃は、両軍に膨大な死傷者を出した。

近衛軍を出さなかった

ネイやミュラは、近衛軍を出せばロシア軍を崩せるとナポレオンに求めた。しかしナポレオンは、遠い異国で最後の予備を失うことを恐れ、近衛軍を最後まで出さなかった。

退いても崩れないロシア軍

ロシア軍は大きな損害を出しながら、1kmほど下がって陣を立て直し、夜のうちに整然と退いた。ナポレオンが望んだ、敵の軍を壊滅させる決定的な勝利にはならなかった。

主な武将とその後

ナポレオン大陸軍(ナポレオン)

この日は風邪で体調が悪かったとも伝えられる。戦いのあとモスクワに入ったが、ロシアは講和に応じず、冬を前に退却して大陸軍の大半を失った。

クトゥーゾフロシア軍(クトゥーゾフ)

ロシア軍の総司令官。モスクワを明け渡す決断をし、退くフランス軍を追いつめた。トルストイの『戦争と平和』では、ロシアの大地の知恵を体現する人物として描かれる。

バグラチオンロシア軍(クトゥーゾフ)

ロシア第2軍の司令官で、勇将として知られた。突角堡の防衛中に脚に砲弾の破片を受け、その傷がもとで亡くなった。

コランクール(オーギュスト)大陸軍(ナポレオン)

フランスの騎兵の将軍。胸甲騎兵を率いて大角面堡に後ろから飛びこむという珍しい攻撃で堡塁を奪ったが、戦死した。

合戦のあと

1週間後の9月14日、ナポレオンはモスクワに入った。しかし町は大火で燃え、ロシアは講和に応じなかった。10月、ナポレオンは退却を始めたが、寒さと飢え、コサックの襲撃で大陸軍は崩れ、ロシアから生きて出られたのは数万人だったといわれる。

この大敗をきっかけに、ヨーロッパの国々は再びナポレオンに立ち向かい、1813年のライプツィヒの戦いへとつながっていく。

諸説と論点

勝ったのはどちらか

戦場を手に入れ、モスクワへの道を開いたのはフランスだった。しかしロシア軍は壊滅せず、むしろフランス軍のほうが取り返しのつかない損害を出した。ナポレオン自身も「フランス軍は勝利に値し、ロシア軍は不敗の名に値した」と語ったという。

死傷者の数

死傷者は、フランス軍約3万、ロシア軍約4万5000とする説が多いが、資料によって大きく違う。一日の戦いとしては、第一次世界大戦まででヨーロッパ最大級の犠牲だった。

関連年表

1806年11月大陸封鎖令
1812年6月ナポレオンがロシアに侵攻
1812年8月スモレンスクの戦い。クトゥーゾフが総司令官となる
1812年9月7日ボロジノの戦い
1812年9月14日ナポレオンがモスクワに入る。モスクワ大火
1812年10月〜12月大陸軍の退却と壊滅
1813年10月ライプツィヒの戦い

両軍の陣容

大陸軍(ナポレオン)約11万

部隊兵力その後
ダヴー・ネイ約4万
大砲列(100門以上)大砲100門以上
ウジェーヌ(イタリア軍)約25,000
ポニャトフスキ(ポーランド軍)約1万
ミュラ・コランクールの胸甲騎兵約15,000
近衛軍(最後まで出されなかった)約2万

ロシア軍(クトゥーゾフ)約11万

部隊兵力その後
バグラチオンの突角堡突角堡降伏
ラエフスキー角面堡(大角面堡)角面堡降伏
第2軍(バグラチオン)約35,000損害
第1軍(バルクライ)約6万
トゥチコフ(ウティツァ)約1万
プラトフのコサック・ウヴァーロフの騎兵約8,000

決め手

大角面堡の陥落

午後、ウジェーヌの歩兵とコランクールの胸甲騎兵が、ラエフスキー角面堡に突入した。騎兵が堡塁の後ろから飛びこむという珍しい攻撃で、コランクールは戦死した。堡塁の中は死体で埋まっていた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「ナポレオン戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:杉本淑彦『ナポレオン ─ 最後の専制君主、最初の近代政治家』(岩波新書)、トルストイ『戦争と平和』