112月1日
わざと弱く見せる
ナポレオンは、戦場の中央の高いプラツェン高地をあえて明け渡し、南の右翼をわざと手薄にした。連合軍は、フランス軍の右翼を破ってウィーンへの道を断とうと考え、その通りに動いた。右翼を支えるダヴーの軍は、ウィーンから2日で110kmを急行していた。
合戦絵巻 ─ ナポレオン戦争 勢力図
12月1日
1805年12月2日、モラヴィア(いまのチェコ)のアウステルリッツの西で、ナポレオンのフランス軍約7万3000が、ロシア・オーストリアの連合軍約8万5000を破った。フランス・ロシア・オーストリアの3人の皇帝がそろったため「三帝会戦」とも呼ばれる。ナポレオンは右翼をわざと弱く見せて敵を誘い、手薄になった中央の高地を突いて、連合軍を二つに断ち切った。ナポレオンの最高傑作といわれる戦いである。
上の観戦プレイヤーでは、フランス軍(ナポレオン)約8万とロシア軍(クトゥーゾフ)約7.7万とオーストリア軍約5,000、あわせて約16万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。
1805年、イギリス・オーストリア・ロシアなどは第三次対仏大同盟を結び、ナポレオンに対抗した。ナポレオンはイギリス上陸の計画をあきらめ、軍をすばやく東へ向けた。
10月、ナポレオンはドイツ南部のウルムでオーストリア軍を包囲して降伏させ、11月にはウィーンに入った。しかし、ロシア軍とオーストリア軍の残りがモラヴィアで合流し、さらにプロイセンも同盟に加わりそうな気配を見せていた。
ナポレオンは、遠くまで攻めこんで兵の数も補給も心細くなっていた。連合軍は、フランス軍の弱さを見て、決戦で一気に勝てると考えた。ナポレオンは、その考えを逆手に取ろうとした。
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112月1日
ナポレオンは、戦場の中央の高いプラツェン高地をあえて明け渡し、南の右翼をわざと手薄にした。連合軍は、フランス軍の右翼を破ってウィーンへの道を断とうと考え、その通りに動いた。右翼を支えるダヴーの軍は、ウィーンから2日で110kmを急行していた。
212月2日 7時
濃い霧の中、連合軍の左翼の大軍が高地を下り、テルニッツ・ソコルニッツの村を攻めた。少ない兵のルグランが粘り、到着したダヴーの兵が加わって、村を取ったり取られたりの激戦となった。プラツェン高地の兵はどんどん南へ移っていった。
38時半
霧が晴れ、朝日が高地を照らした(「アウステルリッツの太陽」)。高地が手薄になったのを見たナポレオンは、谷の霧に隠していたスールトの軍を一気に登らせた。不意をつかれた連合軍は、高地を奪われた。
410時〜13時
ロシア近衛が高地を取り戻そうと反撃したが、ナポレオンの近衛騎兵が撃退した。北ではランヌとミュラがバグラチオンと騎兵の大激戦を繰り広げ、押し戻した。連合軍は南北に断ち切られた。
514時〜
高地を取ったフランス軍は南へ向きを変え、連合軍の左翼を背後から包みこんだ。逃げ場を失った兵は凍った池の上を渡って逃げ、大砲の砲撃で氷が割れて多くが溺れたと伝えられる(溺れた兵の数は、ナポレオンの報告では数千とされたが、実際はずっと少なかったとみられる)。
6結果
連合軍は約2万7000(捕虜を含む)、フランス軍は約9000の損害を出した。オーストリアはプレスブルクの和約を結び、ロシア軍は国へ引き上げた。第三次対仏大同盟は崩れた。ナポレオンは兵たちに「アウステルリッツにいたと言えば、誰もが『勇者だ』と答えるだろう」と布告した。
ナポレオンは、戦場の中央にあるプラツェン高地をあえて明け渡し、南の右翼をわざと手薄にした。連合軍は、フランス軍の右翼を破ってウィーンへの道を断とうと、大軍を南へ動かした。
手薄に見せた右翼を支えたのは、ウィーンから2日で110kmを急行してきたダヴーの軍だった。少ない兵で連合軍の大軍を食い止め、ナポレオンの作戦を成り立たせた。
朝霧が晴れて日が差すと、ナポレオンは谷の霧に隠していたスールトの軍に、手薄になったプラツェン高地を一気に登らせた。中央を奪われた連合軍は南北に断ち切られた。
フランス皇帝。即位1周年の日に大勝した。翌年、神聖ローマ帝国を解体させ、ヨーロッパの大部分を支配下に置いていく。
ナポレオン配下の元帥。生涯で一度も負けなかったともいわれる名将。急行してきた少ない兵で右翼を守りぬいた。
ナポレオン配下の元帥。プラツェン高地への突撃を率いた。ナポレオンは彼を「ヨーロッパ一の戦術家」とほめた。
ロシア軍の総司令官。決戦に反対していたが、若い皇帝アレクサンドル1世に押しきられたとされる。1812年、ナポレオンのロシア遠征を退ける。
連合軍は約2万7000(捕虜を含む)、フランス軍は約9000を失った。オーストリアは12月にプレスブルクの和約を結んで多くの領土を失い、ロシア軍は国へ引き上げた。第三次対仏大同盟は崩れた。
翌1806年、ナポレオンはドイツ西部の国々をまとめてライン同盟をつくり、千年近く続いた神聖ローマ帝国は解体された。ナポレオンの帝国は、最盛期へと向かっていく。
逃げる連合軍の兵が凍った池の上を渡ろうとし、砲撃で氷が割れて数千人が溺れた――とナポレオンは報告した。のちに池の水を抜いて調べると、見つかった遺体はずっと少なかったといわれ、宣伝のための誇張と考えられている。
右翼をわざと弱く見せて敵を誘ったという筋書きは、ナポレオン自身の説明によるところが大きい。ナポレオンは、状況に応じて作戦を変えながら戦い、のちに見事な計画だったように語ったのだ、とする見方もある。
| 1805年8月 | 第三次対仏大同盟 |
|---|---|
| 1805年10月20日 | ウルムの戦い。オーストリア軍が降伏 |
| 1805年10月21日 | トラファルガーの海戦 |
| 1805年11月 | ナポレオンがウィーンに入る |
| 1805年12月2日 | アウステルリッツの戦い |
| 1805年12月26日 | プレスブルクの和約 |
| 1806年8月 | 神聖ローマ帝国の解体 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| ランヌ(第5軍団)・ミュラの騎兵 | 約25,000 | |
| ベルナドット(第1軍団) | 約13,000 | |
| スールト(第4軍団) | 約23,000 | |
| 近衛軍 | 約5,500 | |
| ダヴー(第3軍団) | 約7,000 | |
| ルグラン師団 | 約6,000 | 損害 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| バグラチオン | 約13,000 | |
| クトゥーゾフ・コロヴラート(プラツェン高地) | 約2万 | 損害 |
| ブクスヘーデンの左翼(3縦隊) | 約35,000 | 損害 |
| ロシア近衛(コンスタンチン大公) | 約8,500 | 損害 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| リヒテンシュタインの騎兵 | 約5,000 |
決め手
霧が晴れ、朝日が高地を照らした(「アウステルリッツの太陽」)。高地が手薄になったのを見たナポレオンは、谷の霧に隠していたスールトの軍を一気に登らせた。不意をつかれた連合軍は、高地を奪われた。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「ナポレオン戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:杉本淑彦『ナポレオン ─ 最後の専制君主、最初の近代政治家』(岩波新書)