今の武蔵村山市
多摩地域の北部に位置し、狭山丘陵の南に住宅地と農地が広がるまちです。四村の組合から合併した村山村を前身とし、戦後の団地建設によって発展しました。丘陵の南斜面ではみかんや茶が栽培され、村山かてうどんや村山大島紬などの食・工芸も受け継がれています。狭山丘陵や野山北・六道山公園には、都市に近い里山の自然が残っています。
今の武蔵村山市の区域の人口は、2020年の国勢調査で70,829人です。今の区域で数えた1980年の57,198人とくらべると23.8%ふえ、人口は2015年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は27.0%です。
主な産業:住宅地の商業、野菜・茶・果樹の農業、村山大島紬などの製造業が営まれます。
特産品・名産
- 村山かてうどん地野菜などを添える郷土のうどん
- みかん狭山丘陵の南斜面で育てる果実
- 東京狭山茶市内の茶畑で栽培される茶
見どころ・祭り
- 狭山丘陵市の北部に連なる丘陵
- 都立野山北・六道山公園丘陵の自然と里山に親しむ公園
- 眞福寺梵鐘や格天井の花鳥画を伝える寺
花茶の花木えのき鳥メジロ武蔵村山市の花・木・鳥
武蔵村山市のなりたち
武蔵村山市(むさしむらやまし)は、東京都多摩地域の市です。今の区域の大部分は、1920年(大正9年)の時点では村山村でした。
1920年の時点で、この区域の町村は北多摩郡に属していました。郡は今は住所の表し方などに残るだけの区分ですが、町村がすべて市に入ったり合併したりして、北多摩郡は1970年(昭和45年)11月3日に廃止されました。
「武蔵村山市」という名前
「村山」は、狭山丘陵の峰々を指す「群山(むれやま)」がなまったという説がある地名です。1917年には中藤・三ツ木・岸の三村が合併し、村山村となりました。1954年の町制を経て、1970年の市制施行時には、山形県に同名の村山市があったため「武蔵」を冠した武蔵村山市が選ばれました。丘陵に結び付く古い地域名が市名に残っています。
まちの成り立ち
武蔵村山市の北には狭山丘陵が連なり、その南には武蔵野台地が広がります。この一帯は古くから村山郷と呼ばれ、平安時代末期には村山党と呼ばれる武士団が勢力を伸ばしました。近世には中藤・横田・三ツ木・岸の四村が成立し、農業や織物に関わる暮らしが営まれました。
1889年4月、四村は町村制のもとで中藤村ほか三か村組合となりました。1893年4月には神奈川県から東京府へ移管され、1908年4月に中藤村と横田村が合併しました。1917年4月1日には中藤・三ツ木・岸の三村が合併して村山村が生まれ、1954年11月3日に町制を施行しました。四村の共同行政から、一つの自治体へまとまった歴史を持ちます。
戦後は都営村山団地の建設などに伴って人口が増え、1970年11月3日に武蔵村山市となりました。住宅地が広がった後も、丘陵南面のみかん園や茶畑、野菜を育てる農地が残っています。村山かてうどんや村山大島紬は地域に受け継がれる食とものづくりの特色です。狭山丘陵の緑や里山の風景も、都市の暮らしに近い場所に残されています。
年表
- 1889年4月明治22年町村制の施行により、神奈川県北多摩郡に中藤村・横田村・三ツ木村・岸村の四村の組合が成立した。種類:町村制 出典:www.city.musashimurayama.lg.jp
- 1893年4月明治26年北多摩郡の中藤村・横田村・三ツ木村・岸村が神奈川県から東京府へ移管された。種類:県境を越えた編入 出典:www.city.musashimurayama.lg.jp
- 1908年4月明治41年中藤村と横田村が合併し、中藤村となった。種類:新設合併 出典:www.city.musashimurayama.lg.jp
- 1917年4月1日大正6年中藤村・三ツ木村・岸村が合併し、村山村が生まれた。種類:新設合併 出典:www.city.musashimurayama.lg.jp
- 1954年11月3日昭和29年村山村が町制を施行し、村山町となった。種類:町制施行 出典:www.city.musashimurayama.lg.jp
- 1970年11月3日昭和45年村山町が市制を施行し、武蔵村山市となった。種類:市制施行 出典:www.city.musashimurayama.lg.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。