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大鹿村おおしかむら

大鹿村は、1920年からほぼ同じ区域のまま続いている村です。

1町村から

今の大鹿村

長野県の下伊那郡の北部にある村です。南アルプス(赤石山脈)と伊那山地に挟まれた山あいにあり、中央構造線が村の中を南北に通ります。鹿塩には塩分を含む泉が湧き、山の中で塩づくりが行われてきました。江戸時代から続く大鹿歌舞伎が今も演じられ、中央構造線博物館や鹿塩温泉、小渋温泉があります。

今の大鹿村の区域の人口は、2020年の国勢調査で1,023人です。今の区域で数えた1980年の2,322人とくらべると55.9%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は45.5%です。

1,023人人口(2020年)
−55.9%1980年からの増減
248.28km²面積(国土地理院)
4人/km²人口密度
45.5%65歳以上の割合
2,3221980199020052020
15歳未満 9.6%15〜64歳 45.0%65歳以上 45.5%
今の区域の人口(国勢調査)。各回の市町村の人口を、今の区域にまとめて集計(境界の一部の移動は含まない)。面積は国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」

主な産業:林業と農業、山塩やジビエの加工、温泉と山の観光

特産品・名産

  • 山塩鹿塩の塩泉から作る塩
  • 大鹿ジビエ村で処理する鹿や猪の肉

見どころ・祭り

  • 中央構造線博物館村を通る大断層を学ぶ博物館
  • 鹿塩温泉塩分を含む泉が湧く温泉
  • 大鹿歌舞伎春と秋に演じられる村の歌舞伎
  • 福徳寺本堂は国の重要文化財
  • 大西公園三六災害で崩れた大西山の跡地の公園

大鹿村のなりたち

大鹿村(おおしかむら)は、長野県南信地方の村です。1920年(大正9年)の時点ですでに大鹿村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい村です。

1920年の時点で、この区域の町村は下伊那郡に属していました。

11920年の町村の数
0回合併・編入の回数
248km²今の面積

「大鹿村」という名前

大鹿村は、1875年(明治8年)1月23日に大河原村と鹿塩村が合併して生まれた村です。村名の「大」と「鹿」は、合わさった大河原村と鹿塩村の名の最初の字と同じです。村はいったん二つに分かれましたが、1889年(明治22年)の町村制で再び同じ二つの村の区域がまとまり、大鹿村の名が戻りました。

まちの成り立ち

江戸時代、大河原村と鹿塩村は幕府の領地で、美濃国久々利村の千村氏が預かって治めていました。南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子の宗良親王がこの地の豪族の香坂高宗に守られ、長く南朝方の拠点になったと伝えられています。

1875年(明治8年)1月23日、筑摩県伊那郡の大河原村と鹿塩村が合併して大鹿村が生まれました。1879年(明治12年)には下伊那郡に属しましたが、1882年(明治15年)4月15日に再び大河原村と鹿塩村に分かれます。1889年(明治22年)4月1日の町村制の施行で、二つの村の区域が改めてまとまり、大鹿村が発足しました。それ以来、村の区域は変わっていません。

村は南アルプス(赤石山脈)と伊那山地に挟まれた山あいにあり、中央構造線が村の中を南北に通っています。鹿塩には塩分を含む泉が湧き、海から遠い山の中で古くから塩が作られてきました。1961年(昭和36年)6月の集中豪雨(三六災害)では大西山が崩れ、多くの村民が犠牲になりました。

村には江戸時代から続く大鹿歌舞伎が伝わり、今も春と秋に神社の舞台で演じられています。中央構造線博物館では、村を通る大断層について学ぶことができます。

年表

  1. 1879年1月4日明治12年郡区町村編制法の施行により、大鹿村は下伊那郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
  2. 1882年4月15日明治15年大鹿村が分割され、大河原村と鹿塩村が発足した。種類:分割 出典:Wikipedia
  3. 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、下伊那郡の大河原村・鹿塩村の区域で大鹿村が発足した。種類:町村制 出典:www.pref.nagano.lg.jp

名前の歩み

帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。

大鹿村1889〜今

参考にした資料