合戦絵巻 ─ 日清・日露戦争 勢力図

旅順攻囲戦203高地の攻防

1904年8月19日〜1905年1月1日 / 清 遼東半島 旅順

1904年8月19日〜24日

第1回総攻撃

1粒=約100人

1904年(明治37年)8月から1905年1月1日まで、遼東半島の先にあるロシアの旅順要塞を、乃木希典の第三軍が攻めた。コンクリートの堡塁と機関銃に守られた要塞への突撃は失敗をくり返し、日本軍は約6万人の死傷者を出した。12月に203高地を奪って港の艦隊を沈め、ついに要塞は降伏した。

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第三軍(乃木希典)
約6.9万
旅順要塞(ステッセル・コンドラチェンコ)
約1.2万・船8艘
いつ
1904年8月19日〜24日 → 結果

なぜ戦ったのか

日清戦争のあと、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって、日本は遼東半島を清に返した。ところがその3年後、ロシアは旅順と大連を清から租借し、旅順を太平洋艦隊の拠点として、大がかりな要塞に造りかえた。

1904年2月、日露戦争が始まった。旅順港にこもるロシアの旅順艦隊は、日本の海の補給路をおびやかす存在だった。しかもロシアは、ヨーロッパからバルチック艦隊を送ってくる計画だった。二つの艦隊が合わされば、日本の連合艦隊は勝てないおそれがあった。

海軍は港の入口をふさぐ閉塞作戦を試みたが失敗し、陸軍に要塞の攻略を求めた。乃木希典の率いる第三軍が編成され、8月、要塞への総攻撃が始まった。

合戦の経過

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11904年8月19日〜24日

第1回総攻撃

海軍は、旅順港のロシア艦隊を沈めるため、陸軍に要塞の攻略を求めた。乃木の第三軍は、東の堡塁群に正面から突撃した。しかしコンクリートで固めた堡塁と機関銃の前に、6日間で約1万5000人の死傷者を出して失敗した。

210月

28cm榴弾砲

日本本土の海岸を守っていた28cm榴弾砲を取り外し、18門を旅順に運びこんだ。重さ約10トンの砲弾が堡塁や港に撃ちこまれたが、港の艦は見えないまま撃つしかなかった。堡塁の下まで坑道を掘り進める作戦も始まった。

311月26日

第3回総攻撃と白襷隊

東の堡塁群への総攻撃は、またも失敗した。夜、白い襷を目印にかけた約3000人の決死隊(白襷隊)が松樹山に突入したが、探照灯に照らされ、ほぼ全滅した。乃木は目標を西の203高地に切りかえた。

411月27日〜12月5日

203高地

203高地では、両軍の死体が山を覆うほどの激戦が続いた。満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に来て、重砲をすばやく移して援護させた。12月5日、第7師団がついに山頂を奪った。乃木の次男もこの戦いで戦死した(長男は南山で戦死)。

512月6日〜

港の艦隊を撃つ

203高地に置いた観測所から砲撃を導き、28cm榴弾砲で港内の戦艦・巡洋艦を次々に沈めた。旅順艦隊は全滅し、連合艦隊はバルチック艦隊に備えて日本へ戻り、整備することができた。

612月18日〜1月1日

堡塁の爆破と開城

坑道の先に仕掛けた大量の爆薬で東鶏冠山北堡塁を爆破し、二龍山・松樹山の堡塁も次々に落とした。1905年1月1日、ステッセルは降伏を申し入れた。5日、水師営で乃木とステッセルが会見し、乃木は敗者に帯剣を許した。

7結果

旅順攻囲戦の結果

日本軍は約13万人を投じ、約6万人が死傷した。ロシア側の死傷者も約3万人といわれる。旅順の陥落は世界に大きく報じられ、ロシア国内の不満を強めた。第三軍は北へ向かい、奉天会戦に加わった。乃木の指揮については、正面攻撃にこだわったという批判と、当時の技術では避けられなかったとする見方があり、評価が分かれている。

勝敗を分けたもの

近代要塞の堅さ

旅順の堡塁はコンクリートで固められ、機関銃が並び、まわりを鉄条網が囲んでいた。正面から突撃する歩兵は次々に倒れた。日本軍は、近代的な要塞がどれほど攻めにくいかを、身をもって知ることになった。

28cm榴弾砲と坑道

日本本土の海岸を守っていた28cm榴弾砲を外して旅順に運び、堡塁に撃ちこんだ。堡塁の下まで坑道を掘り進めて、大量の爆薬で爆破する作戦も進められた。力ずくの突撃から、工夫を重ねた攻め方へと変わっていった。

203高地

港を見下ろせる203高地を奪うと、そこから砲撃の着弾を見て指示できるようになった。28cm榴弾砲が港の中の艦を次々に沈め、要塞を攻めた本来の目的が果たされた。

主な武将とその後

乃木希典第三軍(乃木希典)

第三軍司令官。旅順の戦いで2人の息子を失った。水師営の会見では降伏したステッセルに帯剣を許し、その振る舞いは世界に報じられた。明治天皇が亡くなると、そのあとを追って自決した。

児玉源太郎第三軍(乃木希典)

満州軍総参謀長。203高地の攻防が続くなか旅順に来て、重砲をすばやく移して援護させたとされる。

ステッセル旅順要塞(ステッセル・コンドラチェンコ)

旅順要塞の司令官。降伏したことで、のちにロシアで軍法会議にかけられ死刑を言い渡されたが、のちに許された。

コンドラチェンコ旅順要塞(ステッセル・コンドラチェンコ)

要塞の防御を実際に指揮したロシアの将軍。守りの要だったが、12月に東鶏冠山北堡塁で砲弾を受けて戦死した。その死がロシア側の降伏を早めたといわれる。

合戦のあと

1905年1月1日、ステッセルは降伏を申し入れた。1月5日、水師営で乃木とステッセルが会見した。旅順艦隊を失ったロシアは、バルチック艦隊だけで戦うことになり、日本の連合艦隊は本国へ戻って艦の整備を済ませることができた。

第三軍は北へ向かい、3月の奉天会戦に加わった。一方で、旅順で失われた多くの命は、乃木の指揮をめぐる議論を長く残すことになった。

諸説と論点

乃木の指揮は失敗だったのか

正面からの突撃をくり返して多くの兵を失ったとして、乃木の指揮は厳しく批判されてきた。とくに司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は、乃木と参謀たちを無能に近く描いた。一方で、近代要塞を攻めた経験はどの国にもなく、当時の技術では大きな損害は避けられなかったとして、乃木を擁護する研究者もいる。

児玉源太郎の役割

児玉が旅順に来て指揮を代わり、たちまち203高地を落とした――という話は『坂の上の雲』で広く知られた。しかし、児玉がどこまで作戦に口を出したのかは史料からははっきりせず、誇張されているとする見方も多い。

関連年表

1898年ロシアが旅順・大連を租借
1904年2月日露戦争が始まる
1904年8月19日〜24日第1回総攻撃
1904年10月〜11月第2回・第3回総攻撃
1904年12月5日203高地を占領
1905年1月1日ステッセルが降伏を申し入れる
1905年1月5日水師営の会見
1905年3月奉天会戦

両軍の陣容

第三軍(乃木希典)約6.9万

部隊兵力その後
第9師団約18,000損害
第11師団約18,000損害
第1師団約18,000
第7師団(旭川)約15,000
28cm榴弾砲18門
重砲の移動(児玉源太郎)重砲

旅順要塞(ステッセル・コンドラチェンコ)約1.2万・船8艘

部隊兵力その後
旅順艦隊の戦艦(「レトヴィザン」ほか)3隻沈没
「ポベーダ」「ペレスヴェート」2隻沈没
「バヤーン」ほか3隻沈没
203高地約3,000降伏
二龍山堡塁約3,000降伏
東鶏冠山北堡塁約3,000炎上
松樹山堡塁約3,000降伏
旅順市街(ステッセル)降伏

決め手

203高地

203高地では、両軍の死体が山を覆うほどの激戦が続いた。満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に来て、重砲をすばやく移して援護させた。12月5日、第7師団がついに山頂を奪った。乃木の次男もこの戦いで戦死した(長男は南山で戦死)。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「日清・日露戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:大江志乃夫『世界史としての日露戦争』(立風書房)、長南政義『新史料による日露戦争陸戦史』(並木書房)