11月30日
陸から砲台を奪う
山東半島の栄城湾に上陸した第二軍は、雪の中を進み、威海衛の南岸の砲台を陸側から攻め落とした。港の入口は連合艦隊が封鎖し、北洋艦隊は港の中に閉じこめられた。
合戦絵巻 ─ 日清・日露戦争 勢力図
1月30日
1895年(明治28年)1月30日から2月12日にかけて、清の山東半島の軍港・威海衛で、日本の陸軍と海軍が北洋艦隊を追いつめた。陸軍が港の砲台を陸側から奪い、海軍の水雷艇が真冬の夜に港に忍びこんで魚雷を放った。逃げ場を失った北洋艦隊は降伏し、提督の丁汝昌は自害した。
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1894年9月の黄海海戦に敗れた北洋艦隊は、旅順を経て、山東半島の威海衛に引きこもった。威海衛は港の入口の劉公島と、両岸の砲台に守られた要塞で、清の海軍の大きな拠点だった。
日本は11月に旅順を落としたあと、北洋艦隊にとどめを刺すため、威海衛の攻略を決めた。1895年1月、大山巌の第二軍が、威海衛の東の栄城湾に上陸した。
外からは伊東祐亨の連合艦隊が港の入口をふさいだ。海からの攻撃だけでは、砲台に守られた港の中の艦を沈めるのは難しい。陸と海から挟みうちにする作戦だった。
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11月30日
山東半島の栄城湾に上陸した第二軍は、雪の中を進み、威海衛の南岸の砲台を陸側から攻め落とした。港の入口は連合艦隊が封鎖し、北洋艦隊は港の中に閉じこめられた。
22月5日 未明
月の沈んだ真夜中、日本の水雷艇が、南の入口の防材(丸太をつないだ障害物)のすき間をくぐって港に忍びこんだ。凍える寒さの中、探照灯と砲火を浴びながら魚雷を放ち、旗艦「定遠」に命中させた。「定遠」は浅瀬に乗り上げて動けなくなった。
32月6日 未明
次の夜も水雷艇が突入し、「来遠」「威遠」などを沈めた。
42月7日
清の水雷艇隊は、港を逃げ出して芝罘へ向かったが、日本艦隊に追われ、ほとんどが撃沈されるか浜に乗り上げた。
52月12日
援軍の望みを失った丁汝昌は、将兵の命を助けることを条件に降伏を申し入れ、毒をあおって自害した。伊東祐亨は丁汝昌の遺体を、没収せずに残した商船で丁重に送り返した。
6結果
北洋艦隊は消えた。「鎮遠」は日本海軍の艦となり、日露戦争にも出た。北京に迫られることを恐れた清は、講和を急いだ。
第二軍は雪の中を進み、南岸の砲台を陸側から攻め落とした。港を守るはずの砲台が日本の手に渡ったことで、北洋艦隊は港の中で狙われる立場になった。
日本の水雷艇は、月の沈んだ真夜中、港の入口に張られた防材のすき間をくぐって港内に忍びこみ、魚雷を放った。旗艦「定遠」が大破し、翌夜の攻撃でも「来遠」などが沈んだ。小さな艇で大きな艦を沈める、新しい戦い方だった。
清の陸軍は援軍を送ることができず、北洋艦隊は完全に孤立した。水雷艇隊も逃げ出してほとんどが失われ、丁汝昌には戦い続ける手段がなくなった。
北洋艦隊の提督。伊東祐亨から降伏を勧める手紙を受け取ったが、すぐには応じなかった。最後は将兵の命を助けることを条件に降伏を申し入れ、毒をあおって自害した。
連合艦隊司令長官。丁汝昌の死を悼み、没収した艦の中から商船「康済号」を返して、その遺体を丁重に送らせた。この振る舞いは国の内外で称えられた。
第二軍司令官。旅順に続いて威海衛を攻略した。日露戦争では満州軍総司令官として奉天会戦を指揮する。
北洋艦隊は消滅し、清は海軍のほとんどを失った。捕獲された「鎮遠」は日本海軍の艦となり、10年後の日露戦争にも加わった。
北京に近い山東半島まで日本軍に迫られた清は、講和を急いだ。3月から下関で講和会議が始まり、4月17日、下関条約が結ばれた。清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、多額の賠償金を払うことになった。
丁汝昌が降伏を決めてから自害したのか、降伏文書は部下が出したのかについては、記録によって違いがある。いずれにせよ、将兵の命を救うために自らは死を選んだ人物として、日本でも同情をもって語られてきた。
夜襲でどの艦に何本の魚雷が当たったのかは、両軍の記録で食い違うところがある。「定遠」が大破して浅瀬に乗り上げ、のちに自沈させられたことは確かとされる。
| 1894年9月17日 | 黄海海戦 |
|---|---|
| 1894年11月21日 | 日本軍が旅順を占領 |
| 1895年1月20日 | 第二軍が山東半島の栄城湾に上陸 |
| 1895年1月30日 | 南岸の砲台を攻め落とす |
| 1895年2月5日 | 水雷艇の夜襲。「定遠」が大破 |
| 1895年2月12日 | 北洋艦隊が降伏。丁汝昌が自害 |
| 1895年4月17日 | 下関条約 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 第二軍(大山巌)総大将 | 約25,000 | |
| 連合艦隊 | 約25隻 | |
| 第二・第三水雷艇隊 | 10隻 | |
| 水雷艇隊 | 6隻 |
| 部隊 | 兵力 | その後 |
|---|---|---|
| 旗艦「定遠」(丁汝昌)総大将 | 1隻 | 沈没 |
| 「鎮遠」 | 1隻 | 降伏 |
| 「来遠」「威遠」 | 2隻 | 沈没 |
| 清の水雷艇隊 | 13隻 | 降伏 |
| 劉公島(北洋艦隊の司令部) | 砲台・守備兵 | 降伏 |
| 南岸の砲台 | 砲台 | 降伏 |
| 北岸の砲台 | 砲台 | 降伏 |
決め手
月の沈んだ真夜中、日本の水雷艇が、南の入口の防材(丸太をつないだ障害物)のすき間をくぐって港に忍びこんだ。凍える寒さの中、探照灯と砲火を浴びながら魚雷を放ち、旗艦「定遠」に命中させた。「定遠」は浅瀬に乗り上げて動けなくなった。
部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人(船は1艘)を表します。この合戦は「日清・日露戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:大谷正『日清戦争』(中公新書)、原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館)