合戦絵巻 ─ 日清・日露戦争 勢力図

奉天会戦

1905年2月下旬〜3月10日 / 清 満州 奉天(いまの瀋陽)

2月下旬

東の山地から

1粒=約100人

1905年(明治38年)2月下旬から3月10日まで、満州の奉天(いまの中国・瀋陽)のまわりで、日本軍約25万とロシア軍約32万が戦った。100km近い前線で2週間以上続いた、当時の世界最大の会戦である。日本軍は西から大きく回りこんでロシア軍を退かせ、奉天を占領したが、ロシア軍を全滅させる力は残っていなかった。

上の観戦プレイヤーでは、満州軍(大山巌)約24万とロシア満州軍(クロパトキン)約32万、あわせて約56万の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

満州軍(大山巌)
約24万
ロシア満州軍(クロパトキン)
約32万
いつ
2月下旬 → 結果

なぜ戦ったのか

1904年2月に始まった日露戦争で、日本軍は朝鮮から満州へ攻め進み、8月から9月の遼陽会戦、10月の沙河会戦でロシア軍を北へ押し返した。しかし、ロシア軍は退くたびにシベリア鉄道で兵を補い、むしろ数を増していた。

1905年1月に旅順が落ちると、旅順を攻めていた乃木希典の第三軍が北へ向かうことができるようになった。日本は、ロシアにさらに兵が加わる前に、満州のロシア軍に決定的な打撃を与えようとした。

日本の満州軍総司令官・大山巌は、東から西まで5つの軍を並べ、2月下旬、奉天の南に陣取るクロパトキンのロシア軍に総攻撃をかけた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

12月下旬

東の山地から

日本は、旅順から来た第三軍の到着を待って総攻撃を始めた。まず東の山地で鴨緑江軍が攻め、クロパトキンは日本の主力が東から来ると考えて、予備軍を東へ送った。

23月1日〜

第三軍の大迂回

3月1日、全軍が攻撃に出た。中央では両軍の塹壕の間で激しい砲撃戦が続いた。その間に、最も西の第三軍と秋山好古の騎兵が、遼河沿いに北へ大きく回り込み、奉天の西からロシア軍の退路の鉄道を目指した。

33月5日〜8日

予備軍を西へ

クロパトキンは、西から回りこむ第三軍に気づき、東へ送った予備軍を急いで西へ呼び戻した。第三軍は激しい反撃を受けて大きな損害を出し、進めなくなった。

43月9日

砂嵐と中央の突破

9日、激しい砂嵐が吹く中、第一軍・第四軍が中央と東でロシアの防衛線を破った。退路の鉄道を断たれることを恐れたクロパトキンは、全軍に鉄嶺への退却を命じた。

53月10日

奉天入城

3月10日、日本軍は奉天に入った。ロシア軍は北へ退いたが、全滅はまぬがれた。日本軍は追撃しようとしたが、兵も砲弾も尽きていた。

6結果

奉天会戦の結果

日本の死傷者は約7万、ロシアは約9万(捕虜を含む)にのぼった。日本は勝ったが、これ以上戦い続ける力はなかった。政府は、アメリカに講和の仲介を頼む準備を始めた。3月10日は、のちに陸軍記念日とされた。

勝敗を分けたもの

東で引きつけ、西で回りこむ

日本軍はまず東の山地で鴨緑江軍に攻撃させ、ロシア軍の予備兵力を東へ引きつけた。そのすきに、最も西の第三軍が北へ大きく回りこみ、奉天の西からロシア軍の退路を脅かした。

退路の鉄道

ロシア軍の補給と退却は、北へ延びる鉄道に頼っていた。第三軍の動きで鉄道を断たれることを恐れたクロパトキンは、まだ戦う力を残しながらも、全軍に退却を命じた。

尽きかけた力

日本軍は勝ったものの、兵も砲弾も使い果たしていた。退くロシア軍を追いきれず、戦争を続ける力はほとんど残っていなかった。この会戦は、日本が講和へと動く転機となった。

主な武将とその後

大山巌満州軍(大山巌)

満州軍総司令官。作戦は総参謀長の児玉源太郎らに任せ、自らは悠然と構えていたと伝えられる。のちに元帥となった。

乃木希典満州軍(大山巌)

旅順から転じた第三軍の司令官。最も西の端から大きく回りこむ役を担ったが、ロシア軍の激しい反撃で大きな損害を出した。

秋山好古満州軍(大山巌)

日本の騎兵の育ての親。騎兵を率いて西の端を北へ進み、ロシア軍の側面を脅かした。弟は日本海海戦の作戦を立てた秋山真之。

クロパトキンロシア満州軍(クロパトキン)

ロシア満州軍総司令官。慎重すぎる指揮で、優勢な兵力を生かしきれなかったと批判された。会戦のあと総司令官を解任された。

合戦のあと

日本軍は3月10日に奉天に入ったが、ロシア軍は北の鉄嶺・ハルビン方面へ退き、なお大きな兵力を保っていた。日本の死傷者は約7万、ロシアは捕虜を含めて約9万にのぼった。

日本政府は、これ以上戦争を続けるのは難しいと判断し、アメリカに講和の仲介を頼む準備を始めた。5月の日本海海戦の大勝を経て、9月、アメリカのポーツマスで講和条約が結ばれた。3月10日は、のちに陸軍記念日とされた。

諸説と論点

勝ったのはどちらか

奉天を占領した日本の勝利とされるが、ロシア軍の主力は包囲をまぬがれて退却に成功した。日本の側から見ても、ロシア軍を壊滅させるという目標は果たせず、「勝ったが決着はつかなかった」戦いといえる。

砂嵐

3月9日の激しい砂嵐は、ロシア軍の退却の混乱を大きくしたとも、日本軍の追撃を妨げたともいわれる。どちらにより大きく影響したかは見方が分かれる。

関連年表

1904年2月日露戦争が始まる
1904年8月〜9月遼陽会戦
1904年10月沙河会戦
1905年1月1日旅順が降伏
1905年3月1日〜10日奉天会戦。3月10日に日本軍が奉天に入る
1905年5月27日〜28日日本海海戦
1905年9月5日ポーツマス条約

両軍の陣容

満州軍(大山巌)約24万

部隊兵力その後
鴨緑江軍(川村景明)約3万
第一軍(黒木為楨)約5万
第四軍(野津道貫)約5万
第二軍(奥保鞏)約6万
第三軍(乃木希典)約4万損害
騎兵(秋山好古)約5,000

ロシア満州軍(クロパトキン)約32万

部隊兵力その後
奉天
ロシア第2軍約9万損害
ロシア第3軍約8万損害
ロシア第1軍約9万
予備軍(クロパトキン)約6万

決め手

砂嵐と中央の突破

9日、激しい砂嵐が吹く中、第一軍・第四軍が中央と東でロシアの防衛線を破った。退路の鉄道を断たれることを恐れたクロパトキンは、全軍に鉄嶺への退却を命じた。

あわせて見たい合戦

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「日清・日露戦争 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:横手慎二『日露戦争史』(中公新書)、山室信一『日露戦争の世紀』(岩波新書)