合戦絵巻 ─ アレクサンドロス東征 勢力図

ガウガメラの戦い

前331年10月1日 / ガウガメラ

10月1日 朝

斜めの前進

1粒=約100人

紀元前331年10月1日、メソポタミア北部のガウガメラ(いまのイラク北部、アルビール近郊)で、マケドニア王アレクサンドロスが、ペルシア王ダレイオス3世の大軍を破った。アレクサンドロスは自ら騎兵を率いてペルシア軍の隙に突入し、ダレイオスは再び戦場から逃げた。200年続いたアケメネス朝ペルシアは、この戦いで事実上崩れ去った。

上の観戦プレイヤーでは、マケドニア軍 約4万7000—とペルシア軍(ダレイオス3世)約215の兵を1粒=100人で描き、布陣から決着までの6つの場面を再生する。場面のボタンで、見たいところへ飛べる。

マケドニア軍 約4万7000
—
ペルシア軍(ダレイオス3世)
約215
いつ
10月1日 朝 → 結果

なぜ戦ったのか

マケドニア王フィリッポス2世はギリシアを支配下に置き、ペルシア遠征を計画していたが、紀元前336年に暗殺された。20歳で王となった子のアレクサンドロスは、紀元前334年、約4万の兵でアジアへ渡った。

アレクサンドロスは、紀元前334年のグラニコス川の戦いでペルシアの地方軍を破り、紀元前333年のイッソスの戦いでは、ダレイオス3世が自ら率いる大軍を破った。ダレイオスは母や妻子を戦場に残して逃げた。その後アレクサンドロスは、フェニキアのテュロスを7か月の包囲で落とし、エジプトに入って、アレクサンドリアの町を築いた。

ダレイオスは、ユーフラテス川より西の土地を譲るという和平を申し出た。重臣のパルメニオンが「私がアレクサンドロスなら受け入れる」と言うと、アレクサンドロスは「私もパルメニオンなら受け入れる」と答えて、和平を退けたと伝わる。ダレイオスは帝国全土から兵を集め、戦車が走りやすいように平らにならしたガウガメラの平原で待ち受けた。

合戦の経過

場面の「▶ この場面を見る」で、上のプレイヤーがその場面を再生します。

110月1日 朝

斜めの前進

アレクサンドロスは軍を右へ斜めに進めた。ペルシア軍は戦車のためにならした平原から出ないよう、左翼をそれに合わせて伸ばした。

2朝

鎌つき戦車の突撃

ダレイオスは車輪に鎌をつけた戦車を突撃させた。マケドニア兵は隊列の間を開けて戦車を通し、槍で馬を突き、御者を引きずり下ろした。

3昼

くさび形の突撃

伸びたペルシアの左翼と中央の間にすき間ができた。アレクサンドロスは近衛騎兵をくさび形に組んで、そのすき間に突入し、ダレイオスのいる中央を目指した。

4昼

ダレイオス再び逃げる

アレクサンドロスが迫ると、ダレイオスは再び戦場から逃げた。そのころ左翼では、パルメニオンがマザイオスの騎兵に囲まれて苦戦し、救援を求めていた。

5夕方

左翼の救援

アレクサンドロスはダレイオスの追撃をあきらめ、左翼の救援に戻った。王の逃走を知ったペルシア軍は崩れた。

6結果

ガウガメラの戦いの結果

ペルシア帝国の主力は失われた。アレクサンドロスは「アジアの王」を名乗り、バビロン・スーサ・ペルセポリスを次々に手に入れた。ダレイオスは東へ逃れたが、翌年、部下に殺された。

勝敗を分けたもの

右へ斜めに進む

アレクサンドロスは軍を右へ斜めに進めた。ならした平原から出まいとするペルシア軍は、左翼をそれに合わせて伸ばし、その結果、左翼と中央の間に隙間が生まれた。

鎌つき戦車を無力にした

ペルシアの切り札だった鎌つき戦車に対し、マケドニア兵は隊列の間をわざと開けて戦車を通し、その後ろで御者を討ち取った。

王を狙ったくさび形の突撃

アレクサンドロスは、近衛騎兵をくさび形に組んで隙間に突入し、ダレイオスのいる中央を目指した。王が逃げると、ペルシア軍は各所でまだ戦える兵がいたにもかかわらず崩れた。

主な武将とその後

アレクサンドロス3世(大王)マケドニア軍 約4万7000

マケドニア王。若いころ哲学者アリストテレスに学んだ。ガウガメラの後もさらに東へ進み、インド北西部にまで達したが、紀元前323年、バビロンで32歳の若さで亡くなった。

ダレイオス3世ペルシア軍(ダレイオス3世)

アケメネス朝ペルシアの王。イッソスに続いてガウガメラでも逃げ、東方で再起を図ったが、紀元前330年、配下のバクトリア総督ベッソスらに殺された。アレクサンドロスは、その遺体を王の墓に丁重に葬らせたという。

パルメニオンマケドニア軍 約4万7000

フィリッポス2世以来の老将で、左翼を指揮した。マザイオスの騎兵に押されて苦戦し、救援を求めた。のちに息子が陰謀の疑いで処刑されると、アレクサンドロスの命令で殺された。

マザイオスペルシア軍(ダレイオス3世)

ペルシア軍の右翼を率い、パルメニオンを追いつめた。戦後はアレクサンドロスに降り、バビロンの総督に任じられた。

ベッソスペルシア軍(ダレイオス3世)

ペルシア軍の左翼の騎兵を率いたバクトリア総督。のちにダレイオスを殺して自ら王を名のったが、アレクサンドロスに捕らえられ、処刑された。

合戦のあと

ガウガメラの勝利で、アレクサンドロスは「アジアの王」を名のった。バビロン、スーサと、ペルシアの都は次々に開城し、翌年初めにはペルセポリスに入った。ペルセポリスの宮殿は、この地に滞在中に焼け落ちた。

アレクサンドロスは東へ進み続け、中央アジアのバクトリアやソグディアナを平定し、紀元前326年にはインドのヒュダスペス河畔で王ポロスを破った。しかし兵たちがそれ以上の前進を拒んだため引き返し、紀元前323年にバビロンで亡くなった。帝国は部下の将軍たちによって分けられ、エジプトのプトレマイオス朝、西アジアのセレウコス朝などが生まれた。ギリシアとオリエントの文化がまじり合うヘレニズム時代の始まりである。

諸説と論点

ペルシア軍は何人いたのか

古代の歴史家アッリアノスは、ペルシア軍を歩兵100万、騎兵4万と記しているが、これは大きな誇張と考えられている。現在では、多く見積もっても10万前後、少ない見積もりでは5万ほどとする説があり、数でマケドニア軍を上回っていたことは確かとされる。

戦いの前の月食

戦いの11日前、月食が起きたことが記録されている。この記録は、バビロニアの天文記録にも残されていて、戦いの日付を確かめる手がかりになっている。

ペルセポリスの宮殿はなぜ焼けたのか

かつてペルシアがアテネを焼いたことへの報復として、アレクサンドロスが意図して焼いたという説と、酒宴の席での思いつきだったという説があり、はっきりしない。

関連年表

紀元前336年フィリッポス2世が暗殺され、アレクサンドロスが即位
紀元前334年アジアへ渡る。グラニコス川の戦い
紀元前333年イッソスの戦い。ダレイオス3世が逃げる
紀元前332年テュロスを落とす。エジプトに入る
紀元前331年10月1日ガウガメラの戦い
紀元前330年ペルセポリスの宮殿が焼ける。ダレイオス3世が殺される
紀元前326年ヒュダスペス河畔の戦い
紀元前323年アレクサンドロスがバビロンで亡くなる

両軍の陣容

マケドニア軍 約4万7000—

部隊兵力その後
アレクサンドロスと近衛騎兵総大将
ファランクス
パルメニオン(左翼)
後衛の歩兵

ペルシア軍(ダレイオス3世)約215

部隊兵力その後
ダレイオス3世総大将逃走
鎌つき戦車200台討死・壊滅
戦象15頭敗走
ベッソス(左翼の騎兵)バクトリア騎兵敗走
マザイオス(右翼の騎兵)敗走

決め手

くさび形の突撃

伸びたペルシアの左翼と中央の間にすき間ができた。アレクサンドロスは近衛騎兵をくさび形に組んで、そのすき間に突入し、ダレイオスのいる中央を目指した。

部隊の位置・兵力は通説にもとづく概略です。兵力には諸説があります。粒の1つがおよそ100人を表します。この合戦は「アレクサンドロス東征 勢力図」の中でも、合戦アニメとして見られます。
主な参考:アッリアノス『アレクサンドロス東征記』、プルタルコス『英雄伝』アレクサンドロス伝