今の遊佐町
山形県の最北部にあり、日本海に面した町です。北に鳥海山がそびえ、南には庄内平野の北の端が広がります。町の中ほどを月光川が流れて海へ注ぎます。南の海岸には砂浜が続き、北の海岸には鳥海山の溶岩がつくった岩場があって漁場になっています。鳥海山の雪どけ水が湧き出る場所が多く、湧水の池や川が町のあちこちにあります。飽海郡にただ一つ残る町です。
今の遊佐町の区域の人口は、2020年の国勢調査で13,032人です。今の区域で数えた1980年の20,412人とくらべると36.2%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は42.3%です。
主な産業:鳥海山の水を生かした稲作と、メロンなどの果物づくり、吹浦・女鹿の漁業が中心です。
特産品・名産
- 遊佐の米鳥海山の雪どけ水で育つ庄内平野北端の米
- メロン・スイカ砂丘地などで育つ夏の果物
- 日本酒鳥海山の伏流水で仕込む地酒
- 岩ガキ吹浦沖でとれる夏の天然岩ガキ
見どころ・祭り
- 鳥海山町の北にそびえる出羽富士
- 丸池様鳥海山のふもとの青く澄んだ湧水池
- 鳥海山大物忌神社鳥海山をまつる出羽国一宮
- 旧青山家住宅鰊御殿とよばれる国の重要文化財
- 十六羅漢岩海岸の岩に刻まれた羅漢像
木クロマツ花チョウカイフスマ遊佐町の木・花
遊佐町のなりたち
遊佐町(ゆざまち)は、山形県庄内地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、7の町村がありました。川行村・稲田村・吹浦村・高瀬村・西遊佐村・蕨岡村・遊佐村です。これらの町村が、3回の合併や編入を経て、今の遊佐町になりました。
今の名前「遊佐町」は、1920年にあった遊佐村の名前を受け継いでいます。ほかの6の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の遊佐村が約28km²だったのに対し、今の遊佐町は約217km²と、およそ7.8倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は飽海郡に属していました。
消えた町村の名前は、駅の名前に見ることができます。旧吹浦村の区域には吹浦駅(羽越本線)があります。
「遊佐町」という名前
遊佐という地名の意味ははっきりしていません。927年(延長5年)にまとめられた『延喜式』には、出羽国の駅馬を置く地として「遊佐」の名が見えます。937年ごろの『和名類聚抄』にも「遊佐郷」とあり、千年以上前から文字も読みもほとんど変わらずに伝わる地名とされています。平安時代の末には摂関家の荘園「遊佐荘」が置かれ、のちに郡の名にも遊佐が使われました。
まちの成り立ち
江戸時代、遊佐の一帯は庄内藩の領地で、鳥海山のふもとから海岸までの村々が遊佐郷とよばれていました。
1889年(明治22年)の町村制で、飽海郡の北部に遊佐村・吹浦村・高瀬村・西遊佐村・蕨岡村・一郷村・稲田村・川行村が発足しました。翌1890年(明治23年)には一郷村が蕨岡村に編入され、1922年(大正11年)には稲田村と川行村が合併して稲川村になりました。
1941年(昭和16年)、遊佐村が町制を施行して遊佐町となりました。昭和の大合併では、1954年(昭和29年)8月1日に遊佐町・吹浦村・高瀬村・西遊佐村・蕨岡村・稲川村の1町5村が合併し、新しい遊佐町が発足しました。今の町の区域は、このときにほぼできあがりました。
平成の合併では、2003年(平成15年)に酒田市と飽海郡の4町で合併協議会がつくられました。遊佐町は2004年(平成16年)に協議から外れ、ほかの1市3町が2005年に合併して新しい酒田市となりました。このため遊佐町は、飽海郡にただ一つ残る町となっています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、飽海郡に遊佐村・吹浦村・高瀬村・西遊佐村・蕨岡村・一郷村・稲田村・川行村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1890年10月16日明治23年飽海郡一郷村が蕨岡村に編入された。種類:編入 出典:Wikipedia
- 1922年6月1日大正11年飽海郡の稲田村と川行村が合併し、稲川村が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1941年4月1日昭和16年飽海郡遊佐村が町制を施行し、遊佐町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1954年8月1日昭和29年飽海郡の遊佐町・吹浦村・高瀬村・西遊佐村・蕨岡村・稲川村が合併し、新しい遊佐町が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。