今の軽井沢町
長野県の東部、北佐久郡にあり、浅間山の南東のふもと、標高およそ1,000メートルの高原に広がる町です。江戸時代は中山道の宿場町で、明治に宣教師が避暑地として紹介してから、別荘地として知られるようになりました。旧軽井沢銀座の通りや雲場池などに、夏には多くの人が訪れます。高原野菜やジャム、軽井沢彫も知られています。
今の軽井沢町の区域の人口は、2020年の国勢調査で19,188人です。今の区域で数えた1980年の14,195人とくらべると35.2%ふえ、人口はいまもふえ続けています。65歳以上の人の割合は33.6%です。
主な産業:避暑地・別荘地としての観光と、高原野菜の農業
特産品・名産
- 霧下野菜高原で作るレタスなどの野菜
- ジャム明治に外国人向けに作り始めた
- 軽井沢彫明治に外国人向けに始まった木彫り
見どころ・祭り
- 旧軽井沢銀座旧軽井沢の商店街
- 旧三笠ホテル1906年開業の木造ホテルの建物
- 雲場池紅葉で知られる池
- 白糸の滝岩肌から水が流れ落ちる滝
- 追分宿中山道の浅間三宿の一つ
木コブシ花サクラソウ鳥アカハラ軽井沢町の木・花・鳥
軽井沢町のなりたち
軽井沢町(かるいざわまち)は、長野県東信地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、2の町村がありました。東長倉村・西長倉村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の軽井沢町になりました。
今の名前「軽井沢町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの2の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の東長倉村が約87km²だったのに対し、今の軽井沢町は約156km²と、およそ1.8倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は北佐久郡に属していました。
「軽井沢町」という名前
軽井沢町の名前は、江戸時代に中山道の宿場だった軽井沢宿の名から来ています。1889年(明治22年)の町村制では、軽井沢村などがまとまって東長倉村という名前になりましたが、1923年(大正12年)8月1日に町制を施行したとき、名前を軽井沢町に改めました。「軽井沢」という地名の由来ははっきりしていません。
まちの成り立ち
江戸時代、今の軽井沢町には中山道の軽井沢宿・沓掛宿・追分宿が置かれ、碓氷峠を越える旅人や参勤交代の大名でにぎわいました。明治に入ると宿場は寂れましたが、1886年(明治19年)にカナダ生まれの宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーがこの地を訪れて夏の避暑地として紹介し、外国人や都会の人々の別荘が建ち始めました。
1889年(明治22年)4月1日の町村制の施行で、軽井沢村・峠町・沓掛などの区域で東長倉村が、追分村・発地村などの区域で西長倉村が生まれました。東長倉村は1923年(大正12年)8月1日に町制を施行して軽井沢町と名を改め、1942年(昭和17年)5月8日に西長倉村を編入しました。その後も、1957年(昭和32年)2月1日に御代田町の茂沢の一部が軽井沢町に入り、1959年(昭和34年)4月1日には追分の一部が御代田町に移るなど、境の調整がありました。
町は浅間山の南東のふもと、標高およそ1,000メートルの高原にあります。旧軽井沢銀座の通りや旧三笠ホテル、雲場池などが知られ、夏には多くの人が避暑に訪れます。高原の涼しさを生かした野菜づくりや、明治に外国人向けに始まったジャムづくりや軽井沢彫も受け継がれています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、北佐久郡に軽井沢村・峠町と長倉村の一部(沓掛・塩沢新田・借宿)の区域で東長倉村が、追分村・発地村と長倉村の一部(成沢新田・油井)の区域で西長倉村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1923年8月1日大正12年東長倉村が町制を施行し、改称して軽井沢町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1942年5月8日昭和17年西長倉村が軽井沢町に編入された。種類:編入 出典:Wikipedia
- 1957年2月1日昭和32年御代田町の一部(大字茂沢の一部)が軽井沢町に編入された。種類:一部編入 出典:Wikipedia
- 1959年4月1日昭和34年軽井沢町の一部(大字追分のうち西鰍沢)が御代田町に編入された。種類:一部編入 出典:Wikipedia
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。