今の読谷村
沖縄本島中部の西海岸にあり、東シナ海に面する村です。東部の丘陵から西の石灰岩台地へ地形が移り、残波岬や海岸の集落が続きます。世界遺産の座喜味城跡を中心に歴史文化が残り、やちむんや読谷山花織の工房が点在します。紅イモや小菊などの農業と、海辺の宿泊施設を軸とする観光が営まれ、読谷まつりでは各字に伝わる芸能も披露されます。
今の読谷村の区域の人口は、2020年の国勢調査で41,206人です。今の区域で数えた1980年の26,516人とくらべると55.4%ふえ、人口はいまもふえ続けています。65歳以上の人の割合は22.0%です。
主な産業:農業と観光に加え、陶器や織物などの工芸品づくりが営まれています。
特産品・名産
- やちむん工房で作られる琉球陶器
- 読谷山花織色糸で模様を織り出す伝統織物
- 紅イモ村を代表する農産物
見どころ・祭り
- 座喜味城跡世界遺産を構成する石造のグスク跡
- やちむんの里陶器の工房や窯が集まる一帯
- 残波灯台残波岬に立つ灯台
- 喜名番所間切行政の歴史を伝える場所
木フクギ花ブーゲンビレア読谷村の木・花
読谷村のなりたち
読谷村(よみたんそん)は、沖縄県中部地方の村です。1920年(大正9年)の時点ですでに読谷山村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい村です。
- 1920年の郡
- 中頭郡
「読谷村」という名前
「読谷」は、かつての「読谷山」から「山」を除いた村名です。古い歌謡集『おもろさうし』には「よんたもざ」「よんたむざ」と記され、のちに「読谷山」と表記して「ゆんたんざ」と呼ばれました。1908年に読谷山村となり、戦後の復興と人心の一新を願って1946年12月に読谷村へ改称しました。古い読みと表記は、読谷山花織などの名前に今も残っています。
まちの成り立ち
読谷村の前身は読谷山間切です。1908年4月1日の沖縄県及び島嶼町村制施行によって、中頭郡読谷山村となりました。間切の役場は喜名にあり、海岸の集落と内陸の畑地を結んで村の暮らしが営まれていました。
1945年4月1日、読谷の海岸は米軍の沖縄本島上陸地点となりました。村民の多くは各地の収容所で生活し、故郷の土地は軍用地となりました。1946年8月、波平と高志保の一部に居住が認められます。村民は読谷山村建設隊をつくり、荒廃した村の再建に取り組みました。同年11月には最初のまとまった帰村が実現し、12月16日に村名を読谷村へ改めました。役場も喜名から波平へ移りました。
1972年5月15日の日本復帰後は、文化を柱とした村づくりを進めます。読谷山花織の復興や、陶工が集まるやちむんの里の形成、各字の芸能の継承が進みました。1997年には読谷補助飛行場内の土地に新しい役場が開庁し、周辺には文化センターなどが整いました。返還地を生活や文化、スポーツの拠点に変える取り組みが続いています。
年表
- 1908年4月1日明治41年沖縄県及び島嶼町村制の施行により、中頭郡読谷山村が発足した。種類:町村制 出典:www.pref.okinawa.jp
- 1946年12月16日昭和21年中頭郡読谷山村が改称し、読谷村となった。種類:改称 出典:www.pref.okinawa.jp
- 1972年5月15日昭和47年沖縄の日本復帰に伴い、中頭郡読谷村の施政権が日本へ移った。種類:その他 出典:www.archives.pref.okinawa.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。
参考にした資料
- www.pref.okinawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/016/816/r8.1.1shich
- www.pref.okinawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/039/562/r08_2-5.pdf
- www.vill.yomitan.okinawa.jp/soshiki/kikaku_seisaku/gyomu/gaiyo/profile/1239.html
- www.vill.yomitan.okinawa.jp/soshiki/kikaku_seisaku/gyomu/gaiyo/profile/1240.html
- www.vill.yomitan.okinawa.jp/material/files/group/20/R4_kyouikuyouran.pdf
- www.archives.pref.okinawa.jp/event_information/past_exhibitions/934