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渡名喜村となきそん

渡名喜村は、1920年からほぼ同じ区域のまま続いている村です。

1町村から

今の渡名喜村

那覇の北西海上にある渡名喜島と、その西方の無人島・入砂島からなる村です。渡名喜島の北部は丘陵地、南部は石灰岩の山地で、集落はその間の平地に広がります。赤瓦の家々と石垣、フクギの屋敷林、白砂の道が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。漁業や農業が営まれ、もちきびや島人参、島ラッキョウなどが特産です。海神祭などの行事も伝わっています。

今の渡名喜村の区域の人口は、2020年の国勢調査で346人です。今の区域で数えた1980年の609人とくらべると43.2%減り、人口は1995年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は41.3%です。

346人人口(2020年)
−43.2%1980年からの増減
3.87km²面積(国土地理院)
89人/km²人口密度
41.3%65歳以上の割合
6161980199020052020
15歳未満 8.4%15〜64歳 50.3%65歳以上 41.3%
今の区域の人口(国勢調査)。各回の市町村の人口を、今の区域にまとめて集計(境界の一部の移動は含まない)。面積は国土地理院「全国都道府県市区町村別面積調」

主な産業:漁業や、もちきび・島人参などを生産する農業が営まれています。

特産品・名産

  • もちきび島で栽培される穀物
  • 島人参島で栽培される野菜
  • 島ラッキョウ島で栽培される野菜

見どころ・祭り

  • 渡名喜島の集落赤瓦の家並みが残る重要伝統的建造物群保存地区
  • 里遺跡グスク時代の歴史を伝える遺跡
  • 大本田展望台島の風景を望む展望台

木フクギ花カワラナデシコ渡名喜村の木・花

渡名喜村のなりたち

渡名喜村(となきそん)は、沖縄県南部地方の村です。1920年(大正9年)の時点ですでに渡名喜村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい村です。

1920年の郡
島尻郡
11920年の町村の数
0回合併・編入の回数
4km²今の面積

「渡名喜村」という名前

村名は、住民が暮らす渡名喜島の名を用いています。「渡名喜」という島名の語源ははっきりしていません。1908年4月1日の島嶼町村制で、渡名喜島と西方の入砂島を区域とする渡名喜村が発足しました。「となき」の名は、村名と島名に共通して使われています。村章も片仮名の「トナキ」を組み合わせた形で、この名を表しています。

まちの成り立ち

渡名喜島は琉球王国の時代、久米島から慶良間諸島を経て首里へ知らせを送る海上通信の中継地でした。大本田には烽火台が置かれ、島々をつなぐのろしの一端を担っていました。明治期には耕地が広げられ、山の斜面に段々畑が作られました。薪や豚の生産も島の暮らしを支えていました。

1896年に島尻郡に属し、1908年4月1日の島嶼町村制で渡名喜島と入砂島からなる渡名喜村が発足しました。1906年に始まったカツオ漁は大正期に盛んになりましたが、その後の鰹節や豚の価格下落で島の経済は打撃を受けました。昭和初期には南洋諸島へ働きに出る人が増え、送金が島の家計を支えました。

戦後は島外から戻る人々を迎え、漁業などの復興が進みました。米国の施政下で村政を続け、1972年5月15日の沖縄の日本復帰を迎えました。2000年には集落が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。赤瓦の家々や石垣、フクギの屋敷林、白砂の道には、海風に備えながら暮らしてきた集落の姿が残っています。

年表

  1. 1896年4月1日明治29年渡名喜島が、新たに設けられた島尻郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
  2. 1908年4月1日明治41年島嶼町村制の施行により、島尻郡に渡名喜村が発足した。種類:町村制 出典:www.pref.okinawa.jp
  3. 1972年5月15日昭和47年渡名喜村を含む沖縄が日本に復帰した。種類:その他 出典:www.archives.pref.okinawa.jp

名前の歩み

帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。

渡名喜村1908〜今

参考にした資料