今の久慈市
岩手県北東部にある市です。北上山地を背に太平洋に面し、市街地は久慈湾の奥にあります。久慈川や長内川、夏井川などが流れ、内陸には平庭高原が広がります。海岸部は三陸復興国立公園に含まれ、小袖海岸は北限の海女の拠点として知られます。古くから琥珀の産地で、鉱山と加工場、博物館があります。柔道の三船久蔵十段の生誕の地で、柔道が盛んです。
今の久慈市の区域の人口は、2020年の国勢調査で33,043人です。今の区域で数えた1980年の43,683人とくらべると24.4%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は34.0%です。
主な産業:農業(ほうれんそう)、漁業(サケ・ウニなど)、琥珀の採掘と加工、誘致企業の製造業が営まれています。
特産品・名産
- 久慈の琥珀国内最大の産地として知られる
- いわてくじ山形村短角牛市の公式サイトの食材紹介に掲載
- ウニ市の公式サイトの食材紹介に掲載
見どころ・祭り
- 小袖海岸北限の海女の拠点
- 久慈琥珀博物館琥珀を展示する博物館
- 久慈平庭高原県立自然公園平庭高原を含む自然公園
- 久慈城跡市指定の史跡
木しらかば花つつじ鳥うぐいす久慈市の木・花・鳥
久慈市のなりたち
久慈市(くじし)は、岩手県県北の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、8の町村がありました。侍浜村・夏井村・大川目村・長内村・宇部村・山根村・山形村・久慈町です。これらの町村が、2回の合併や編入を経て、今の久慈市になりました。
今の名前「久慈市」は、1920年にあった久慈町の名前を受け継いでいます。ほかの7の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の久慈町が約22km²だったのに対し、今の久慈市は約658km²と、およそ30.2倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は九戸郡に属していました。
「久慈市」という名前
久慈の名は、アイヌ語の「クシュ」または「クジ」に由来し、湾曲した砂丘を指すとする説があります。これとは別に、岩手大学の教授だった言語学者の日置孝次郎が、久慈の語源はクジラだと唱えたこともあります。どれも決め手はなく、由来ははっきりしていません。今の市の名前は、市の中心となった久慈町の名を引きついだものです。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日の町村制で、下大川目村・長久寺村・門前村などがまとまって南九戸郡久慈町が生まれました。周りには長内村・宇部村・山根村・山形村・大川目村・夏井村、北九戸郡には侍浜村ができました。1897年(明治30年)に南北の九戸郡が一つになり、これらの町村は九戸郡に属しました。
江戸時代の久慈は八戸藩の領地で、砂鉄が多くとれ、藩の財政を支えました。1939年(昭和14年)には川崎重工業が久慈製鉄所を開き、砂鉄から鉄をつくりました。
1952年(昭和27年)6月1日、長内村が町制を施行して長内町になりました。1954年(昭和29年)11月3日には、久慈町・長内町・宇部村・大川目村・侍浜村・夏井村・山根村の2町5村が合併し、久慈市が生まれました。平成の大合併では、2006年(平成18年)3月6日に久慈市と山形村が合併し、今の久慈市が発足しました。
海沿いの地域は、明治三陸津波・昭和三陸津波・チリ地震津波にたびたび襲われ、そのため高台にある集落が多くなっています。2011年(平成23年)の東日本大震災でも、大きな津波が海岸部を襲いました。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、南九戸郡に久慈町・長内村・宇部村・山根村・山形村・大川目村・夏井村が、北九戸郡に侍浜村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1897年4月1日明治30年南九戸郡と北九戸郡が統合されて九戸郡となり、久慈町などの町村は九戸郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
- 1952年6月1日昭和27年九戸郡長内村が町制を施行し、長内町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1954年11月3日昭和29年九戸郡の久慈町・長内町・宇部村・大川目村・侍浜村・夏井村・山根村が合併し、市制を施行して久慈市が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 2006年3月6日平成18年久慈市と九戸郡山形村が合併し、改めて久慈市が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.iwate.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。