今の普代村
岩手県北東部にある、太平洋に面した村です。三陸海岸の断崖が続き、砂浜は少なめです。村を横切る普代川とその支流の茂市川が普代浜で海に注ぎます。平野はごくわずかで、川沿いの谷あいや丘陵に集落が広がります。海岸段丘が発達し、丘の上には平らな土地もあります。漁業と水産養殖が産業の大部分を占め、昆布やサケなどが知られます。
今の普代村の区域の人口は、2020年の国勢調査で2,487人です。今の区域で数えた1980年の4,023人とくらべると38.2%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は42.9%です。
主な産業:漁業と水産養殖が中心で、山間地の農地開発や観光にも取り組んでいます。
特産品・名産
- すき昆布昆布を薄く削って加工したもの
- 鮭・イクラ村沖で捕れる鮭の加工品
- 塩蔵ワカメ村の特産品として紹介
見どころ・祭り
- 陸中黒埼灯台日本の灯台50選に選ばれている
- 鵜鳥神社鵜鳥神楽が伝わる神社
- 普代浜海水浴場普代浜の海水浴場
木エンジュ花ハマユリ鳥ウミウ普代村の木・花・鳥
普代村のなりたち
普代村(ふだいむら)は、岩手県県北の村です。1920年(大正9年)の時点ですでに普代村として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい村です。
1920年の時点で、この区域の町村は下閉伊郡に属していました。
「普代村」という名前
普代という地名の由来は、はっきりしていません。村の記録では、1508年(永正5年)の馬の焼印の図に「ふたい」という名が見えます。1644年(正保元年)の正保の絵図には「譜代」や「譜代崎」と書かれており、江戸時代の初めにはこの地名があったことがわかります。1889年(明治22年)の町村制のあとも、普代村の名前がそのまま使われています。
まちの成り立ち
村の中の遺跡から、縄文時代にはすでに人が住んでいたことがわかっています。平安時代の初めには卯子酉神社が建てられたと伝えられ、これが今の鵜鳥神社です。1590年(天正18年)には南部信直の治める土地となり、江戸時代は南部領として野田の代官所の支配を受けました。
1889年(明治22年)4月1日の町村制で、普代村はほかの村と合わさらず、そのままの区域で村になりました。1897年(明治30年)には北閉伊郡などが一つになって下閉伊郡ができ、普代村はその一番北の村になりました。昭和の大合併でも平成の大合併でも、ほかの市町村とは合併していません。
1961年(昭和36年)5月には、新里村から広がった山火事が村にまで燃え広がりました。1984年(昭和59年)には三陸鉄道が開通しました。
2011年(平成23年)の東日本大震災では、津波で海沿いの漁業施設などが大きな被害を受けました。それでも、高さ15.5メートルの普代水門と太田名部防潮堤が津波を食いとめ、集落の浸水を防ぎました。海岸には高い崖が続き、砂浜は多くありません。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、北閉伊郡普代村がそのままの区域で村となった。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1897年4月1日明治30年北閉伊郡・中閉伊郡・東閉伊郡が統合されて下閉伊郡となり、普代村は下閉伊郡に属した。種類:郡の変更 出典:Wikipedia
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。