今の珠洲市
石川県の北東のはし、能登半島の先にある市です。三方を海に囲まれ、長い海岸線が続きます。土地の多くは低い山や丘で、そのあいだに田畑と集落があります。市内でとれる珪藻土を使った七輪づくりや、中世から伝わる珠洲焼、揚げ浜式の塩づくりが知られています。2024年の能登半島地震で大きな被害を受けました。
今の珠洲市の区域の人口は、2020年の国勢調査で12,929人です。今の区域で数えた1980年の27,351人とくらべると52.7%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は51.7%です。
主な産業:珪藻土の七輪づくりや珠洲焼などの窯業、塩づくり、漁業、農業が営まれています。
特産品・名産
- 珠洲焼12世紀後半ごろから作られた焼き物
- 珪藻土の七輪市内でとれる珪藻土を切り出してつくる
- 揚げ浜式の塩海水を砂にまいてつくる昔ながらの塩
見どころ・祭り
- 禄剛埼灯台能登半島の先端に1883年に建てられた灯台
- 見附島軍艦島とも呼ばれる島
- 須須神社古くからまつられてきた神社
木赤松花ツバキ鳥ウグイス珠洲市の木・花・鳥
珠洲市のなりたち
珠洲市(すずし)は、石川県能登地方の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、9の町村がありました。西海村・三崎村・正院村・直村・若山村・蛸島村・飯田町・上戸村・宝立村です。これらの町村が、3回の合併や編入を経て、今の珠洲市になりました。
今の名前「珠洲市」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの9の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の西海村が約71km²だったのに対し、今の珠洲市は約252km²と、およそ3.5倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は珠洲郡に属していました。郡は今は住所の表し方などに残るだけの区分ですが、町村がすべて市に入ったり合併したりして、珠洲郡は2005年(平成17年)3月1日に廃止されました。
「珠洲市」という名前
「珠洲」という名前が最初に記録に出てくるのは、平城京の跡で見つかった713年の木簡です。733年の出雲国風土記には、国引き神話の中に「高志の都都の三埼」が出てきます。この「つつ」は、能登半島の先の「すず」を指すと考えられています。語源には、地元の須須神社や、鈴にちなむとする説などがあり、はっきりしていません。
まちの成り立ち
1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行で、いまの市域には飯田町と13の村が生まれました。飯田町には珠洲郡の郡役所が置かれていました。1907年(明治40年)に日置村・大谷村・大崎村が合わさって西海村となり、1908年には鵜島村・黒峰村・見付村が宝立村に、東若山村・西若山村が若山村に、三崎村と鉢崎村が三崎村にまとまりました。
昭和に入ると、宝立村が1940年(昭和15年)に、正院村が1941年に町制を施行し、宝立町と正院町になりました。
昭和の大合併では、1954年(昭和29年)7月15日に飯田町・宝立町・正院町・上戸村・若山村・直村・三崎村・西海村・蛸島村の9町村が合併し、珠洲市が発足しました。それから今まで、市の区域は変わっていません。
能登半島の先にあるまちで、先端の禄剛崎には1883年(明治16年)に建てられた禄剛埼灯台が立っています。2024年の能登半島地震では大きな被害を受けました。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、珠洲郡に飯田町と鵜島村・黒峰村・見付村・上戸村・東若山村・西若山村・直村・正院村・三崎村・鉢崎村・大谷村・大崎村・日置村・蛸島村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1907年10月15日明治40年珠洲郡の日置村・大谷村・大崎村が合併し、西海村が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1908年8月15日明治41年珠洲郡で村の統合が行われ、鵜島村・黒峰村・見付村が宝立村に、東若山村・西若山村が若山村に、三崎村・鉢崎村が三崎村になった。種類:新設合併 出典:Wikipedia
- 1940年8月15日昭和15年珠洲郡宝立村が町制を施行し、宝立町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1941年11月3日昭和16年珠洲郡正院村が町制を施行し、正院町となった。種類:町制施行 出典:Wikipedia
- 1954年7月15日昭和29年珠洲郡の飯田町・宝立町・正院町・上戸村・若山村・直村・三崎村・西海村・蛸島村が合併し、珠洲市が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。