今の野辺地町
下北半島の付け根にあり、北は陸奥湾に面し、南に烏帽子岳がそびえる港町です。野辺地川が町の中心部を北へ流れ、陸奥湾に注ぎます。江戸時代は奥州街道と松前道の分かれ目にあたり、千石船が行き交う南部藩有数の商港として栄えました。今は陸奥湾のホタテ養殖や、葉つきこかぶの栽培が知られます。常夜燈や祇園まつりなど、港町の歴史を伝えるものが残ります。
今の野辺地町の区域の人口は、2020年の国勢調査で12,374人です。今の区域で数えた1980年の18,419人とくらべると32.8%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は38.1%です。
主な産業:陸奥湾のホタテ養殖などの漁業と、葉つきこかぶ・長いもなどの農業が盛んです。
特産品・名産
- ほたて陸奥湾で養殖される主要な海産物
- 野辺地葉つきこかぶ地域団体商標に登録された小かぶ
- 長いも町で作られる特産の野菜
見どころ・祭り
- 常夜燈公園日本最古の灯台といわれる常夜燈がある
- 愛宕公園町を一望できる公園。啄木の歌碑がある
- 野辺地防雪原林野辺地駅にある鉄道記念物の防雪林
- 藩境塚南部藩と津軽藩の境に築かれた塚
- 馬門温泉町の東部にある温泉
木サクラ花ハマナス鳥カモメ野辺地町の木・花・鳥
野辺地町のなりたち
野辺地町(のへじまち)は、青森県上北地域の町です。1920年(大正9年)の時点ですでに野辺地町として今とほぼ同じ区域があり、それから一度も合併をしていない、県内でもめずらしい町です。
1920年の時点で、この区域の町村は上北郡に属していました。
「野辺地町」という名前
「野辺地」の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代の1335年(建武2年)です。名の由来ははっきりしていません。「野」は自然のままの広い土地、「辺地」はそのあたりを表すとする説があります。このほか、アイヌ語で「野の中を流れる川」を意味する「ヌプンペッ」に由来するとする説もあります。
まちの成り立ち
野辺地は下北半島の付け根にあり、北は陸奥湾に面し、南には烏帽子岳がそびえます。町内には縄文時代の遺跡が多く、古くから人が住んでいました。江戸時代は奥州街道と松前道の分かれ目にあたる交通の要所でした。延宝年間(1673〜1680年)から明治の初めにかけては、地元の豪商の千石船が日本海沿岸や大阪・函館と交易し、南部藩でも有数の商港として栄えました。南部藩と津軽藩の境には藩境塚が残ります。1868年(明治元年)には、戊辰戦争の一つの野辺地戦争がこの地で起きました。1889年(明治22年)4月1日の町村制で、上北郡の野辺地村・馬門村・有戸村が一つになり、野辺地村が発足しました。1897年(明治30年)8月に町制を施行して野辺地町となり、2017年(平成29年)に町制施行120周年を迎えました。その後は合併をしておらず、平成の合併の時期に横浜町と話し合った合併も見送られました。野辺地駅には鉄道記念物の防雪原林が残り、縄文時代後期の板状立脚土偶は国の重要文化財です。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、上北郡の野辺地村・馬門村・有戸村が合併して野辺地村が発足した。種類:町村制 出典:www.town.noheji.aomori.jp
- 1897年8月28日明治30年上北郡野辺地村が町制を施行して野辺地町となった。種類:町制施行 出典:www.town.noheji.aomori.jp
- 2003年10月1日平成15年野辺地町と横浜町がつくった任意合併協議会が廃止され、野辺地町は合併しなかった。種類:その他 出典:www.pref.aomori.lg.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。