今の小笠原村
東京都の南方に広がる小笠原諸島などの島々を区域とする村です。住民の暮らしは父島と母島を中心とし、本土とは定期船で結ばれています。亜熱帯の海と森林には固有の動植物が多く、海の観察や自然散策を生かした観光が行われています。農地ではパッションフルーツやトマト、コーヒーなどが栽培されます。父島と母島の集落には、戦前から日本復帰後までの歴史が重なっています。
今の小笠原村の区域の人口は、2020年の国勢調査で2,929人です。今の区域で数えた1980年の1,879人とくらべると55.9%ふえ、人口は2015年まではふえ、その後は少し減っています。65歳以上の人の割合は14.1%です。
主な産業:自然を生かした観光、パッションフルーツなどの農業、漁業、食品加工が行われています。
特産品・名産
- パッションフルーツ島で栽培される果実
- 小笠原コーヒー島で栽培されるコーヒー
- ラム酒島の名産として作られる酒
見どころ・祭り
- ウェザーステーション展望台父島の西側の海を望む展望台
- 小笠原海洋センターウミガメの保護や展示を行う施設
- 乳房山母島の森林を歩く山
- 境浦海岸海に沈む船の跡が残る父島の海岸
木タコノキ花ムニンヒメツバキ鳥ハハジマメグロ小笠原村の木・花・鳥
小笠原村のなりたち
小笠原村(おがさわらむら)は、東京都島しょ地域の村です。
「小笠原村」という名前
小笠原村の名は、小笠原諸島の地域名を引き継いでいます。1968年に諸島が日本へ復帰した際、小笠原支庁の区域を一つの村として設置しました。戦前の村名とは別に、地域名の小笠原が村名になりました。小笠原という地域名は、小笠原貞頼が島を発見したとの伝承に結び付いています。島の発見にはこのほか、1670年に母島へ漂着した船や、1675年の幕府による探検の歴史が重なっています。
まちの成り立ち
小笠原諸島では、1830年にハワイから来た欧米人や太平洋の島々の人々が父島に定住しました。明治時代に日本の統治が進み、1880年には東京府の管轄となりました。島庁、後の支庁が島々を所管し、本土の町村とは異なる行政の歩みをたどります。
1940年に普通町村制が施行され、父島に大村・扇村袋沢村、母島に沖村・北村、硫黄島に硫黄島村の五村が設置されました。ところが太平洋戦争が激しくなると、1944年に島民は本土へ強制疎開します。戦後は米国の施政権下となり、1952年の平和条約発効に伴って支庁と各村役場が閉鎖されました。
1968年6月26日、小笠原諸島は日本に復帰しました。戦前の五村をそれぞれ復活させるのではなく、支庁の区域全体を小笠原村として設置し、島々の行政を一つにまとめました。当初は任命された職務執行者と村政審議会が村政を担い、1979年に初めて村長と村議会議員の選挙が行われました。
現在の暮らしは父島と母島を中心とし、定期船が本土や二つの島を結んでいます。戦前の集落の名や戦跡を残す一方、島固有の自然を守る観光と農業が育っています。強制疎開と戦後の断絶、日本復帰を経て生まれた点が、小笠原村の成り立ちの特徴です。
年表
- 1940年普通町村制の施行により、父島に大村・扇村袋沢村、母島に沖村・北村、硫黄島に硫黄島村が発足した。種類:町村制 出典:www.vill.ogasawara.tokyo.jp
- 1952年平和条約の発効に伴い、小笠原支庁と大村・扇村袋沢村・沖村・北村・硫黄島村の各役場が閉鎖された。種類:その他 出典:www.vill.ogasawara.tokyo.jp
- 1968年6月26日昭和43年小笠原諸島の日本復帰に伴い、小笠原支庁の区域をもって小笠原村が設置された。種類:その他 出典:www.vill.ogasawara.tokyo.jp
- 1979年小笠原村で初めて村長と村議会議員の選挙が行われた。種類:その他 出典:www.vill.ogasawara.tokyo.jp
名前の歩み
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。