今の尾鷲市
三重県の南部、熊野灘に面するリアス式海岸の市です。面積の約9割が山林で、背後を山に囲まれ、黒潮が流れる海からの湿った空気で日本有数の雨の多いまちとして知られます。天然の良港である尾鷲港を基盤に水産業が発達し、江戸時代から林業も盛んで、尾鷲ヒノキの産地です。熊野古道の伊勢路が通り、須賀利町は飛地になっています。
今の尾鷲市の区域の人口は、2020年の国勢調査で16,252人です。今の区域で数えた1980年の31,348人とくらべると48.2%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は45.0%です。
主な産業:江戸時代から林業が盛んで、尾鷲ヒノキの産地です。天然の良港の尾鷲港を基盤に水産業も発達しています。
特産品・名産
- 尾鷲ヒノキ江戸時代から植林が続く尾鷲の木材
- ブリ尾鷲の代表的な鮮魚
- ケンケンのカツオ一本釣りの日帰りカツオ
- 尾鷲わっぱヒノキの曲げ物
- 尾鷲傘伝統的な産品
見どころ・祭り
- 熊野古道伊勢路馬越峠の石畳道などが残る。熊野参詣道伊勢路は国の史跡
- 尾鷲ヤーヤ祭県指定無形民俗文化財の祭り
- 九木神社樹叢国の天然記念物
- 須賀利大池及び小池国の天然記念物
- 見世土井家住宅国の登録有形文化財
木ヒノキ花ヤブツバキ鳥アオサギ尾鷲市の木・花・鳥
尾鷲市のなりたち
尾鷲市(おわせし)は、三重県東紀州地方の市です。今の市の区域には、1920年(大正9年)の時点で、5の町村がありました。須賀利村・九鬼村・北輪内村・南輪内村・尾鷲町です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の尾鷲市になりました。
今の名前「尾鷲市」は、1920年にあった尾鷲町の名前を受け継いでいます。ほかの4の町村の名前は、自治体の名前としては消えましたが、地区の名前や学校、駅などに残っていることが少なくありません。
面積は、1920年の尾鷲町が約107km²だったのに対し、今の尾鷲市は約188km²と、およそ1.8倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は北牟婁郡・南牟婁郡に属していました。
「尾鷲市」という名前
市名は、明治以降この地方の中心だった尾鷲町の名を受け継いだものです。読みは「おわせ」で、1942年(昭和17年)の尾鷲駅の駅名標には「をわし」と書かれていたことが知られています。「尾鷲」という地名そのものの語源を確かめられる資料は見つかっていません。
まちの成り立ち
尾鷲は、1582年(天正10年)に紀伊と伊勢の境が荷坂峠に定められたことで紀伊国牟婁郡に入り、江戸時代には林業と港で栄えました。1889年(明治22年)4月1日の町村制で、北牟婁郡に尾鷲町・九鬼村・引本村が、南牟婁郡に北輪内村・南輪内村ができました。1897年(明治30年)に引本村から須賀利浦が分かれて須賀利村となり、1909年(明治42年)には九鬼村の行野浦が尾鷲町に編入されています。1954年(昭和29年)6月20日、尾鷲町・須賀利村・九鬼村・北輪内村・南輪内村の1町4村が合併して尾鷲市が発足しました。須賀利は長い間陸路が通じず、海路でつながる尾鷲を選んだため、今も市の飛地になっています。その後は合併をせず、当時の市域のまま続いています。人口の8割以上は旧尾鷲町の区域に集まっています。
年表
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、北牟婁郡に尾鷲町・九鬼村・引本村(須賀利浦を含む)が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1889年4月1日明治22年町村制の施行により、南牟婁郡に北輪内村・南輪内村が発足した。種類:町村制 出典:Wikipedia
- 1897年5月31日明治30年北牟婁郡引本村の一部(須賀利浦)が分立して須賀利村が発足した。種類:分割 出典:Wikipedia
- 1909年10月18日明治42年北牟婁郡九鬼村の一部(行野浦)が尾鷲町に編入された。種類:一部編入 出典:Wikipedia
- 1954年6月20日昭和29年北牟婁郡の尾鷲町・須賀利村・九鬼村と南牟婁郡の北輪内村・南輪内村が合併し、市制を敷いて尾鷲市が発足した。種類:新設合併 出典:Wikipedia
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。