今の礼文町
宗谷地方の西、日本海上にある礼文島の全域が町域で、稚内市の沿岸から西へ約60kmの距離にあります。島は南北に長い逆三角形で、北部が船泊、南部が香深です。西側は断崖が続きます。漁業と観光が基幹産業で、夏はエゾバフンウニや利尻昆布、ホッケが水揚げされます。海抜ゼロメートルの地帯から高山植物が咲き、島固有の花も多く知られます。
今の礼文町の区域の人口は、2020年の国勢調査で2,509人です。今の区域で数えた1980年の5,990人とくらべると58.1%減り、人口は1980年をピークに減っています。65歳以上の人の割合は36.3%です。
主な産業:漁業と観光が基幹産業で、ウニ・昆布・ホッケなどを水揚げしています。
特産品・名産
- エゾバフンウニ夏の主な水揚げ。ウニ丼の発祥地とされる
- 利尻昆布島の漁業の主な水揚げ
- ホッケ島の漁業の主な水揚げ
見どころ・祭り
- 桃岩展望台島の展望台
- スコトン岬島の北端の岬
- 澄海岬島の岬
- 礼文岳標高490mの山
- 礼文町郷土資料館島の歴史を展示
木シンパク花レブンウスユキソウ鳥コマドリ礼文町の木・花・鳥
礼文町のなりたち
礼文町(れぶんちょう)は、北海道宗谷地方の町です。今の町の区域には、1920年(大正9年)の時点で、2の町村がありました。船泊村・香深村です。これらの町村が、1回の合併や編入を経て、今の礼文町になりました。
今の名前「礼文町」は、1920年にあったどの町村の名前とも違い、合併のときに新しくつけられた名前です。もとの2の町村の名前は、自治体の名前としてはすべて消えました。
面積は、1920年の船泊村が約52km²だったのに対し、今の礼文町は約94km²と、およそ1.8倍になりました。
1920年の時点で、この区域の町村は礼文郡に属していました。
「礼文町」という名前
「礼文」は、アイヌ語で「沖の島」を意味する「レプンシㇼ」の「レプン」に字を当てた名とされます。アイヌ語研究者の山田秀三は、利尻島の沖にあるために付いた名としています。1956年(昭和31年)9月20日に香深村と船泊村が合わさって礼文村が置かれ、1959年(昭和34年)9月1日の町制施行で礼文町になりました。
まちの成り立ち
礼文島は、もとは礼文アイヌが暮らした地で、文政年間までは幕府の直轄地として請負制度で支配されていました。旧香深村は、1871年(明治4年)に鈴木倉光ら7名が開拓使庁の保護のもとで来住しました。旧船泊村は、1819年(文政2年)に近江の藤野四郎兵衛が松前藩の漁場請負人になってから、ニシン漁が急に発展しました。1880年(明治13年)2月9日に礼文郡の各村戸長役場が香深に置かれ、1892年(明治25年)10月15日に船泊外1村戸長役場が分けられました。1902年(明治35年)4月1日の二級町村制で、香深村と船泊村が生まれ、香深村は1923年(大正12年)に一級町村制となりました。1956年(昭和31年)9月20日に両村を廃して礼文村が置かれ、1959年(昭和34年)9月1日に町制を施行して礼文町になりました。町は礼文島の全域です。1974年(昭和49年)には島が国立公園に指定され、海辺近くから高山植物が咲く「花の浮島礼文」として、全国から多くの観光客が訪れるようになりました。
年表
- 1902年4月1日明治35年礼文郡で北海道二級町村制が施行され、香深村と船泊村が発足した。種類:町村制 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1923年香深村が北海道一級町村制を施行した。種類:その他 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1956年9月20日昭和31年香深村と船泊村が合併し、礼文村が発足した。種類:新設合併 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
- 1959年9月1日昭和34年礼文村が町制を施行し、礼文町となった。種類:町制施行 出典:www.pref.hokkaido.lg.jp
今の区域にあった町村
帯は、それぞれの町村が続いた期間(1889年〜今)です。